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鞄
ボストン・バッグ |
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作品ID | 55430 |
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著者 | 室生 犀星 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「黒髮の書」 新潮社 1955(昭和30)年2月28日 |
初出 | 「新潮 第51巻第1号」新潮社、1954(昭和29)年1月1日 |
入力者 | 磯貝まこと |
校正者 | 待田海 |
公開 / 更新 | 2023-08-01 / 2023-07-31 |
長さの目安 | 約 25 ページ(500字/頁で計算) |
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朝の九時に鐵のくぐりを出た打木田は、それでも、しばらく立つて誰か迎へに來てゐるだらうかと、あちこち見[#挿絵]したが、やはりさとえは來てゐなかつた。外にも出る者がゐるらしく、差入屋の入口に五六人の肩をちぢめた連中がゐたが、迎へのない打木田を見ると眼に同情のしなを見せて見送り、打木田はその前でちよつと頭を下げて行つた。五六人の連中は打木田のしたより二倍くらゐのていねいさで、頭を下げて應へた。
打木田は利根川べりの郊外から、息もつかずに町の中にはいると、電車にも乘らずにまつすぐに、くるわ町の交叉點に出て行つた。そして角にある煙草屋の店を見すましたが、先刻と同じ足どりで店先に駈け込むやうにして行つて、勢ひ好くタバコをくれと言つた。奧から中年の女が出て來たが、打木田はピースとバットを續けさまにいひつけ、お釣錢をうけるとき打木田の眼はワナワナふるへた。蒸し上るやうな女のふとつた白さが、眼にはいるよりも内股にうづいて來て、全身に例のワナワナがわいて來た。打木田はあわてた乾いた口もとで、聲もかすれて早口でいつた。
「燐寸、燐寸をください。」
「はい、燐寸、」
もう女の顏を見ることのできない、あわてふためいたところに、かれはゐた。打木田はピースに火をつけると燐寸を返さうとし、女は燐寸はお持ちなさいといつてくれた。ふしぎさうに燐寸をうけとるとかれは燐寸といふものが、どこでも、ただでくれるものだといふことが判らずにゐたから、お禮をいつた。二年半のあひだに四囘見た女の顏は、二年半のあひだかれに毎晩その顏をすぐわきにならべて寢てゐてくれた。打木田はしんみなやうなものを感じて、お禮をいひたかつたが、そんなばかなこともいへずにまた交叉點に出て、店屋の通りを東の方に歩いて行つた。まるで顏に手をかけておもちやにしてゐたやうな女が、そんなことはちつとも知らないでゐることが、人間には神通もなにもないやうで、人間なんてだめなやうなものに思はれた。
利根川ぞひの町のはづれにある、この大きなとうふやにはいる前に打木田は[#挿絵]パンを七個買つて、からのボストン・バッグに入れた。ボストン・バッグはからのままのかれのただひとつの所持品であつた。手ぬぐひと齒ブラシがはいつてゐるきりである。打木田はなんでもいいから、品物も問はずに入れて、ボストン・バッグを一杯にふくらがして置きたかつた。朝刊を繪本屋で買ひ二つ折りにして入れ、さつきの[#挿絵]パンの重みにくはへて、ちよつとした膨らみを見せたのでかれは陽氣になつて、古い町家作りのとうふやにはいつた。
とうふやでは十時近いので、その日のあぶらあげをあげてゐた。
「此處でたべたいんだが。」
「お好きかね。」
さういふことはしじゆうあるので、お内儀は大鍋の下に藁を一とにぎり燻べ、あたらしく水を切つた揚げとうふをいれた。とうふはまはりから乾いた揚げ耳をつく…