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美しき敵
うつくしきてき
作品ID55468
著者富永 太郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「富永太郎詩集」 現代詩文庫、思潮社
1975(昭和50)年7月10日
入力者村松洋一
校正者川山隆
公開 / 更新2014-03-23 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私はその頃不眠症に悩んで居た。
 かなり多くの人々が私の病気を知つてしまつて、それに対する忠告を与へてくれる人も少くなかつた。
 気軽な或る大学生は言つた。「運動が足りないんだね。君みたいに一日中室の中に居て煙草を吸つてる男に安眠の出来るわけはないさ。ちつと学校のコートへやつて来たまへ。昼休みにお対手しよう。」
 肥満した或る若い会社員は言つた。「君、誰か見付けて早速結婚したまへ。すぐ癒るよ。君みたいな男がその齢になるまで独身で居るなんてわるいことだ。」
 その外、まだ数多くあつたが、私は今それらを列挙する煩に堪へない。勿論忘れてしまつたものもある。
 私はそれらの親切な忠告のいづれにも反対しはしなかつた。といふのは、睡眠不足の為に著しく明晰を缺いて居た私の頭には、それらのどの忠告の根拠も、皆私の症状の中に見出されるやうに感ぜられたからである。それにも拘らず、私の従つた忠告は、結局一つも無かつた。恐らくこの怖るべき病気が、その徴候の一つとして、私の意志を根こそぎ奪ひ去つてしまつたためなのであらう。いや、真実を言ふと、これらの忠告は、それが与へられた次の瞬間には、私にとつて実にくだらなく、ばかばかしく見えて、たゞそれらの忠告者に対する私の軽蔑の念を強めるに役立つにすぎなかつたのだ。
 一日、堪へがたく永い時間を消すために、私は私の敬愛するマギステルを、かれのデユーラー風の書斎に訪うた。かれは、久しく会はなかつた私の顔を見ると、心から心配げに私が健康を害して居はしないかと尋ねた。この白髪の老人の、子供らしい真実が、私をして今までにない率直さで私の症状を答へさせた。一体私は、私に向つて容態を問ふ人には、恰も私の病気が、他人に談つてしまふにはあまりに勿体ない或る秘密な快楽であるかのやうに、異常な巧妙さでそれの真相を対手から蓋ひ隠さなくては居られない奇妙な習慣を造り上げてしまつてゐたのだが。
 私の答を聞き終つたかのマギステルは、もの悲しげな色をかれの大きな眼鏡の奥にただよはせながら、ゆつくりと言つた。
「私はあなたを苦ませて眠を妨げるあのものを、形而上学的復讐の感情と呼んで居ます。夜はすべての現象の垣を取り払ふものです。そこであなたの巨大な敵が出現するのです――さうです、あなたの場合では、たしかに敵です。」
 私はかれのテユートン民族的の気質から生れる言説を聞くたびに、その思想のゴテイツク風の効果から快い圧迫を感ずると同時に、その単純な荘重さにやゝ滑稽な感じを見出さずには居られないのを常とした(その故にこそ、私はこの老人を心から敬愛するのだ)。このときもまたさうであつた。然し、この日は、なほその上に、かれの言説の中に私が怖れを以て見出さなければならぬあるものがあつた。さうだ、夜毎に、私の心臓を、私自身の肉体の組織を破壊するまでに燃え立たせるあの毒々しい感情が、復讐…

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