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夢
ゆめ |
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作品ID | 55622 |
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著者 | 和辻 哲郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「和辻哲郎全集 補遺」 岩波書店 1978(昭和53)年6月16日 |
初出 | 「新潮」1952(昭和27)年9月 |
入力者 | 岩澤秀紀 |
校正者 | 火蛾 |
公開 / 更新 | 2016-12-26 / 2016-09-09 |
長さの目安 | 約 25 ページ(500字/頁で計算) |
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夢の話をするのはあまり気のきいたことではない。確か痴人夢を説くという言葉があったはずだ。そう思って念のために辞書をひいて見ると、痴人が夢を説くというのではなくして、痴人に対して夢を説くというのがシナのことわざであった。夢の話をすること自体が馬鹿げたことだというのではない。痴人に対して夢の話をするのが馬鹿げているというのである。そうなると大分むつかしくなる。どうしてそれが馬鹿げているのであろうか。反対に、賢人に対して夢の話をしても馬鹿げたことにならないのはなぜであろうか。それに対するシナ人の答えは、痴人ノ前ニ夢ヲ説クベカラズ、達人ノ前ニ命ヲ説クベカラズという句に示されているように見える。これは陶淵明の句だと言われているが、典拠は明らかでない。とにかく、すでに命を十分に体得している達人に対して、今さら命を説くのが馬鹿げているように、到底現実となり得ないような夢にあこがれている痴人に対して、さらに夢を説いて聞かせるのは、馬鹿げたことだという意味であろう。夢にあこがれている痴人に対してなすべきことは、人力のいかんともなし難い命運を説いて聞かせることである。そのように、命を悟ってあきらめに達している賢人に対しても、夢を説いて聞かせるのは無意味ではあるまい。夢へのあこがれがどれほど現実に動いているかを痛感させてやれば、命運で割り切ってあきらめの底に沈んでいる達人も、なんとかしなくてはという気持ちで、動き出してくるかも知れない。あるいはまたそういう達人は、夢の話を聞いて、その底に動いている命を達観し、それを解りやすく教えてくれるかも知れない。従って達人に対して夢を説くということは、少しも馬鹿げたことではない。これが陶淵明の句から当然帰結されてよい考えだと言ってよかろう。
右のシナ人の句では、夢というのが文字通りの夢であるのか、あるいは理想のことを比喩的に言っているのか、はっきりしないのであるが、理想のことを言っているのだとすると、空想的なユートピアの論や歴史的転回の必然性の論に関係がなくもなさそうである。しかし文字通りの夢を問題としているのだとしても、学者が夢の中から無意識の底の深い真実を掴み出してくれる現代にあっては、なかなか馬鹿にできぬ考えだといわなくてはならない。痴人に対して夢を説いても何にもならないが、精神分析学者の前で夢を説けば、自分にも解らない自分の真相を実に明白に開示してもらえるからである。もっともそういう精神分析学者の解釈を信用しないことはその人の自由である。昔は夢は神のお告げということになっていたので、占卜者の解釈を信用しないと、恐ろしい神罰を受ける怖れがあった。精神分析学者は神のお告げを神様の方から生理心理的な個体の方へ移してしまって、リビドの表現ということにしてしまったのであるから、そういう学説をエセ学説として排斥しても、リビドが復讐するなどとい…