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四谷、赤坂
よつや、あかさか
作品ID55652
著者宮島 資夫
文字遣い新字新仮名
底本 「大東京繁昌記」 毎日新聞社
1999(平成11)年5月15日
初出「東京日日新聞」1927(昭和2)年10月4日~9日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-09-30 / 2014-09-16
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

高力松

 いかつい石垣が向い合って立っていた。子供の目には恐ろしく高く見える。石垣の上は四角く平らになっていた。昔はぶっさき袴の侍がその上に立って、四辺を睥睨したであろう。石垣に続いた土手は、ゆるい傾斜で、濠の水面まですべっていた。水は青いぬらで澱んでいた。菱の葉が浮いていた。夏は紅白の蓮の花が咲いた。土手には草が蓬々と茂っていた。が、濠端を通る人影はまばらだった。日影の尠い、白ちゃけた道が、森閑として寂しく光った。葭簀張の店もなかった。『氷やこ――り、こ――り』今は全くなくなった、呼び売の氷屋の声が、時たまあたりに響く位だ。
 冬は勿論、人通りは尠くなった。街灯もなかった。月のない晩は凄いほど暗かった。ただ、見附のワキに出る煮込み吸とんの屋台の光が、漸くほっと息をつかせる位だった。
 それが私の子供時分の四谷見附だったのである。荒廃してはいたが、江戸城外廓の趣は残っていた。
 木村町の高力松、現在では救世軍の学校と変圧所がある、あのあたりは、昔は辻斬のあったという場所である。赤坂離宮横、喰違い見附の向うの土手には、首縊りの松という松があった。実際よく死んだらしい。太い枝が、土手の傾斜に添うて、人間の丈より少し高く、工合よく突き出ていた。あの松の下を通ると何となく、死にたくなる、といって人々は恐れていた。紀の国坂下の濠には河童がいるというのであった。雨の降った晩には、笠をかぶって徳利を下げた小僧が歩くとか、人力で坂を上ると途中で急に重くなるとか、それがみんな河童だった。
 高力松から喰違い見附まで、あの濠端は、子供の頭に無気味な印象を深く残した。
 が、然し今日では、濠は、大半埋められた。土手の下には公設市場さえ立った。電車が走り自動車が飛ぶ。喰違い見附下の、活動写真館の電気は、夜も濠を明るく照らす。河童も死神も、存在の余地を全く失ってしまっている。
 甲武線の開通は、文明開花の光によって、この辺の陰気な空気を破った第一歩だ。明治二十何年かはっきりとは憶えていない。それから後も、狸が汽車の真似をしてひき殺されたというような、滑稽な話はあったが、以前のような凄みはなくなった。出来たてのトンネルの赤煉瓦に、兜の飾りをつけたのが、子供の眼には物々しく美しかった。
 工事中に明治天皇の銀婚式があった。工事の土で、田圃のように埋った濠の中に、大きな鶴と亀との細工物が出来た。人間の二、三倍も大きな物だったような記憶がある。
 汽車は全く珍しかった。鉄道馬車もガタ馬車もない土地の子供には、非常な驚きと喜びだった。殊に離宮下を貫く長いトンネルは、どうして掘れたのか子供には判らなった[#「判らなった」はママ]。開通当時は汽車の方も呑気だった。時間も間違う代わりに五厘出しても一銭出しても、信濃町までの切符をくれた、お客は大半子供だった。
 汽車がトンネルに入ると、『わーっ』と…

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