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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID55656
副題064 九百九十両
064 きゅうひゃくきゅうじゅうりょう
著者野村 胡堂
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第十三卷 焔の舞」 同光社磯部書房
1953(昭和28)年9月5日
初出「オール讀物」文藝春秋社、1937(昭和12)年6月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2014-07-01 / 2014-09-16
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「親分」
「何だ、八」
「腕が鳴るね」
 ガラツ八の八五郎は、小鼻をふくらませて、親分の錢形平次を仰ぎました。
 初夏の陽を除け/\、とぐろを卷いた縁側から、これも所在なく吐月峯ばかり叩いてゐる平次に、一とかど言ひ當てたつもりで聲を掛けたのでした。
「腕の鳴る面かよ、馬鹿野郎。近頃お濕りがないから、喉が鳴るんだらう」
「違げえねえ」
 平掌で額をピシヤリ。この二三日スラムプに陷つてゐる平次から、この痛快な馬鹿野郎を喰はせられるのが、ガラツ八にはたまらない嬉しさの樣子です。
「八、あれを聞くがいゝ」
「何ですえ、親分」
「誰か來たやうだ、飛んだ面白い仕事かも知れないよ」
「――」
「家の前を往つたり來たりしてゐるだらう。入らうか入るまいか、先刻から迷つてゐる樣子だ、――女の跫音だね」
 平次の言葉が終らぬうちに格子が開いて、お靜が取次に出た樣子、若い女の低いが彈み切つた聲が聞えます。やがて通されたのは、二十歳そこ/\の愛くるしい娘、何やら惱みに打ちひしがれて、部屋の隅に小さく俯向きました。
 色白の顏が少し痙攣して、豊かな肩が搖れると、恐る/\顏をあげて、相對した江戸一番の御用聞――錢形平次の顏をソツと見上げるのです。
「俺は平次だが、何んな用事で來なすつた。思ひ切つて打明けてみるがいゝ」
 平次はこの娘の裡から善良なものを感じました。
「親分さん、父さんを助けて下さい。父さんは頸を縊つて死ぬんだといつて、何うなだめても聞いてくれません」
「成程、それは大變だらう、――お前の父さんといふのは何だえ、稼業は?」
 平次は娘の昂奮を外らさないやうに、心持せき込んで訊ねます。
「灸點横町(神田佐久間町)の多の市でございます」
「あ、蛸市か。すると姐さんはお濱さんかい、道理で――」
 縁側からガラツ八が長い顎を出します。
「默つて引込んで居ろ、馬鹿野郎ツ」
 平次の一喝を喰つて、ガラツ八は頭を叩かれた蝸牛のやうに引込みました。
 尤も、娘の名乘るのを聞いて、ガラツ八が乘り出したのも無理のないことだつたのです。灸點横町の多の市といふのはお灸と鍼の名人で、神田中に響いた盲人ですが、稼業の傍ら高利の金を廻し、吸ひ附いたら離れないからといふので、蛸市と綽名を取つてゐるほど、強か者だつたのです。
 その娘のお濱の美しい話も、ガラツ八は聞き飽きるほど聞かされて居りました。ポチヤポチヤして可愛らしくて、若い男の心をひしと掴まずには措かない――といふ噂のお濱が、この物に怯えて雁皮紙のやうに顫へて居る娘とは思ひもよりません。
「さう仰しやるのも無理はございません。父さんは本當にお金を溜めるのに夢中だつたんですから、――その命がけで溜めたお金が九百九十兩、誰かに盜まれてしまひました」
「九百九十兩?」
 錢形平次は驚きました。九百九十兩といへば、千兩にたつた十兩缺けただけ、聞いただ…

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