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日本橋附近
にほんばしふきん
作品ID55666
著者田山 花袋
文字遣い新字新仮名
底本 「大東京繁昌記」 毎日新聞社
1999(平成11)年5月15日
初出「東京日日新聞」1927(昭和2)年4月19日〜5月5日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-07-28 / 2014-09-16
長さの目安約 38 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 日本橋附近は変ってしまったものだ。もはやあのあたりには昔のさまは見出せない。江戸時代はおろか明治時代の面影をもそこにはっきりと思い浮べることは困難だ。
 あのさびた掘割の水にももはやあの並蔵の白さはうつらなかった。あれがあるために、あのきたない水も詩になったり絵になったりしたのに……。それでも去年の暮だったか、あの橋の上を歩いていると、かしましく電車や自動車の通っているのを余所に、一艘の伝馬がねぎの束ねたのや、大根の白いのや、漬菜の青いなどを載せて、小刻みに小さな艪を押しながら静かに漕いで行くのを眼にしたことがあった。私はたまらなくなつかしい気がした。じっとその野菜舟の動いていくのを見詰めた。
 その掘割の水は例によってわるくさびていたけれども、それでもそこにその野菜や船頭の影が落ちて、それが皺をたたんださざ波の底にかすかながらもそれと指さされるのだった、私は遠い昔の面影をそこに発見したような気がした。何もかも移り変って行ってしまっている中に――ことに震災以後は時には廃址になったかとすら思われるくらいに零砕に摧残されている光景の中にそうした遠い昔の静けさが味わわれるということは、私に取っては何ともいえないことだった。ことに、その日は冬の霧のどんよりとした空にどこからともなく薄日がさし添って来ているような日で、午前十時過ぎの静けさが統一しないバラックの屋根やら物干やら不恰好なヴェランダやらを一面におおい包んでいた。物干の上には後向になった女の赤い帯などが見えていた。
 それにしても魚河岸の移転がどんなにこのあたりを荒凉たるものにしてしまったろう。それは或はその荒凉という二字は、今でも賑かであるそのあたりを形容するのに余り相応しくないというのもあるかも知れないが、しかもそこにはもはやその昔の空気が巴渦を巻いていないことだけは確かであった。どこにあの昔の活発さがあるだろう。またどこにあの勇ましさがあるだろう。それは食物店の屋台はある。昔のままの橋寄りの大きな店はある。やっぱり同じように海産物が並べられ、走りの野菜が並べられている。屋台の鮨を客が寄って行って食っている。しかし今ではそれを食ったり買ったりするものが半分以上変って行ってしまっているではないか。江戸の真中の人達というよりも、山の手の旦那や細君が主なる得意客になっているではないか。従って盛り沢山な、奇麗な単に人の目を引くだけのものの様な折詰の料理がだらしなくそこに並べられてあったりするではないか。三越が田舎者を相手にするように、ここ等の昔の空気も全くそうした客の蹂躙するのに任せてしまっているではないか。それが私にはさびしかった。あたりがバラックになったと同じように、また並蔵の白さが永久に水にうつらなくなったと同じように、洗濯物を干した物干が大通りからそれと浅く透かされて見えるように。



 ある…

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