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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 55684 |
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副題 | 082 お局お六 082 おつぼねおろく |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「錢形平次捕物全集第十六卷 笑ひ茸」 同光社磯部書房 1953(昭和28)年9月28日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋社、1938(昭和13)年11月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2014-02-28 / 2016-12-14 |
長さの目安 | 約 27 ページ(500字/頁で計算) |
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一
紅葉は丁度見頃、差迫つた御用もない折を狙つて、錢形平次は、函嶺まで湯治旅と洒落ました。
十手や捕繩を神田の家に殘して、道中差一本に、着換の袷が一枚、出來るだけ野暮な堅氣に作つた、一人旅の氣樂さはまた格別でした。
疲れては乘り、屈託しては歩き、十二里の長丁場を樂々と征服して、藤澤へあと五六町といふところまで來たのは、第一日の申刻過ぎ――。
「おや?」
平次はフト立停りました。
道中姿の良い年増が一人、道端の松の根元に、伸びたり縮んだり、齒を喰ひしばつて苦しんでゐるのです。
「どうなすつた、お神さん?」
ツイ傍へ寄つて、顏を差覗いた平次。
「お願ひ、――み、水を――」
斜に振り上げて、亂れかゝる鬢の毛を、キリキリと噛んだ女の顏は、そのまゝ歌舞伎芝居の舞臺にせり上げたいほどの艶やかさでした。
「癪を起したといふのか、――そいつは厄介だが、――待ちな、今、水を持つて來てやる。反つちやならねえ、どつこい」
平次は女の身體を押付けてゐた手を離すと、ツイ十五六間先の百姓家へ飛んで行きました。まご/\する娘つ子を叱り飛ばすやうにして、茶碗を一つ借りると、庭先の井戸から水を一杯くんで、元の場所へ取つて返します。
その忙しい働きのうちに、街道筋は暫く人足が絶えて、浪人者が二三人、うさんな眼を光らせて通つただけ――。
「おや?」
平次はもう一度目を見張りました。ツイ今しがたまで、松の根方にもがき苦しんでゐた、道中姿のいゝ年増が、何處へ消えて無くなつたか、影も形も見えなかつたのです。
狐につまゝれたやうな心持で、藤澤の宿に入ると、旅籠だけは思ひ切り彈んで、長尾屋長右衞門の表座敷を望んで通して貰ひましたが、足を洗つて、部屋に通ると、懷中へ手を入れた平次は、
「おや/\そんなものが望みだつたのか、手數のかゝる芝居をしたものぢやないか」
思はず苦笑ひをしたのも無理はありません。頸からブラ下げた財布が、何時の間にやら、見事に切り取られて居たのです。
「どうなさいました、お客樣」
入つて來た番頭は、平次の頸にブラブラと下がつた紐に驚いたのでせう。
「ハツハツハツ、巾着切にやられたよ。江戸者も旅に出ちや、からだらしがねえ」
「それは大變ぢやございませんか」
腰を浮かす番頭。
「騷ぐほどのことぢやないよ、番頭さん。取られたのは、ほんの小出しの錢が少しばかりさ。まだ小判といふものをうんと持つてゐるから、旅籠賃の心配はさせねえ」
平次はそんな事を言つてカラカラと笑ひますが、盜られた財布の中味は、正直のところ、路用から湯治の雜用を併せて三兩二分ばかり、あとに殘つたのは、煙草入に女房のお靜が入れてくれた、たしなみの小粒が三つだけです。
「お役人に申しませうか」
「いや、それにも及ぶめえよ」
江戸の高名な御用聞、錢形の平次が巾着切にしてやられたとは、さすがに人に知られ…