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へび
作品ID55722
著者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「灰燼 かのように 森鴎外全集3」 ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年8月24日
初出「中央公論 第二十六年第一号」1911(明治44)年1月
入力者田中陽介
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-07-09 / 2015-06-09
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 明け易い夏の夜に、なんだってこんなそうぞうしい家に泊り合わせたことかと思って、己はうるさく頬のあたりに飛んで来る蚊を逐いながら、二間の縁側から、せせこましく石を据えて、いろいろな木を植え込んである奥の小庭を、ぼんやり眺めている。
 座布団の傍に蚊遣の土器が置いてあって、青い烟が器に穿ってある穴から、絶えず立ち昇って、風のない縁側で渦巻いて、身のまわりを繞っているのに、蚊がうるさく顔へ来る。夕飯の饌に附けてあった、厭な酒を二三杯飲んだので、息が酒の香がするからだろうかと思う。飲まなければ好かったに、咽が乾いていたもんだから、つい飲んだのを後悔する。
 ここまで案内をせられたとき、通った間数を見ても、由緒のありげな、その割に人けの少い、大きな家の幾間かを隔てて、女ののべつにしゃべっている声が、少しもと切れずに聞えているのである。
 恐ろしく早言で、詞は聞き取れない。土地の訛りの、にいと云う弖爾波が、数珠の数取りの珠のように、単調にしゃべっている詞の間々に、はっきりと聞こえる。東京で、ねえと云うところである。ここは信州の山の中のある駅である。
 暫く耳を済まして聞いていたが、相手の詞が少しも聞こえない。女は一人でしゃべっているらしい。
 挨拶に出た爺いさんが、「病人がありまして、おやかましゅうございましょう」と、あやまるように云ったが、まさか病人があんなにしゃべり続けはすまい。
 もしや狂人ではあるまいか。
 詞は分からないが、音調で察して見れば、何事をか相手に哀願しているようである。
 遠いところでぼんぼん時計が鳴る。懐中時計を出して見れば、十時である。
 月が小庭にさしている。薄濁りのしたような、青白い月の光である。きのう峠で逢った雨は、日中の照りに乾いて、きょうは道が好かったに、小庭の苔はまだ濡れている。「こちらが少しはお涼しゅうございましょう」と云って爺いさんに連れて来られた黄昏に、大きな蝦蟇が一疋いつまでも動かずに、おりおり口をぱくりと開けて、己の厭がる蚊を食っていたのを思い出して、手水鉢の向うを見たが、もうそこにはなんにもいなかった。
 この縁側の附いている八畳の間には、黒塗の太い床縁のある床の間があって、黒ずんだ文人画の山水が掛っている。向こうに締め切ってある襖には、杜少陵の詩が骨々しい大字で書いてある。何か物音がするように思って、襖の方を見ると、丁度竹の筒を台にした、薄暗いランプの附いている向うの処で、「和気日融々」と書いてある、襖が開いて、古帷子に袴を穿いた、さっきの爺いさんが出て来た。
「あちらへお床を延べました。いつでもお休みになりますなら。」
「そうさね。まだ寐られそうにないよ。お前詞が土地の人と違うじゃないか。」
「へえ。若い時東京に奉公をいたしておりましたから、いくらか違いますのでございましょう」と云って、禿げた頭を掻いている。
 次…

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