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果物の木の在所
くだもののきのざいしょ |
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作品ID | 55725 |
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著者 | 津村 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「花の名随筆5 五月の花」 作品社 1999(平成11)年4月10日 |
入力者 | 浦山敦子 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2023-01-05 / 2023-01-03 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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信州の子供達や大人が首をながくして待つてゐた春は、永い間待つただけの甲斐があつて、これは又なんと美しい時でせう。
信州では、梅、桃、桜、杏、李といふやうな、春の花がいつときに咲き出すと言はれてゐます。勿論いつときとは言つても、多少の早いおそいはありませうが、まるで匂ひこぼれるやうな美しい花が、町の庭にも、野や山にも、相ついで、次々と咲き出すのです。
梅の花と言へば、暖かいところでは、二月の半ばにはもう咲くものです。それがどうでせう。この山国では、四月になつて、やつと咲くのです。その梅の花がそろ/\散るころになると、もうあの田舎びた杏の花のさかりです。桜の花は四月の末から、五月の初にかけて、その花をひらきます。
信州でも、この善光寺平はとりわけ果物の多いところです。
果物の木と言へば、どんなものがあるでせう。桃、梨、林檎、柿、杏、李、それに桜桃などもその一つです、さうして色々の種類のこんな果物の木が、この善光寺平には一つ残らず植わつてゐるのです。これらの、おいしい果物の実る木は、又みんな美しい花の咲く木なのです。考へてみると、面白いものですねえ。
杏の木は、そのいかにも田舎らしい花の色から言つても、一番この地方と似合つてゐるやうに思はれます。さうして、又実際に、この杏の木は昔から善光寺平にたくさんあつたのです。善光寺平には松代といふ町があります。昔、ここのお殿様は真田といふ方でした。ところが、この松代の殿様はたいへん賢い人で、この方が自分の領地に杏の木を植ゑるのを奨励なさつたのです。そのわけは、この杏の美しい花を眺めるといふだけではなかつたのです。この木から漢薬の杏仁といふものをとるためだつたのです。善光寺平に来て、この杏の話がでると、土地の老人達はきまつてかう言つて答へます。
「善光寺様の鐘の音のきこえる処には、どこに行つても杏の木がありますよ」と。これはその老人達が勝手に考へ出したり、こさへたりした言葉ではありません。きつとこの老人達が、まだあなた方位の小さい時分に、お父さんやお母さんからきかされた言葉なのでせう。さうして、そのお父さんやお母さんも、又きつとおぢいさんやおばあさんから、長い冬の晩に、炬燵の中で、話してもらつたものに違ひないのです。
かう言ふものは、すべて伝説と呼ばれます。この伝説は何処の国でもあるものでして、かうやつて、あとから生れてくるものに次々と語りきかされ、昔のままで残つてゐるものなのです。私達も、静かな田舎の家で、老人から、こんな杏の伝説をきかされると、ほんとになつかしい気持がするものです。
ところで、伝説には間違ひはありません。今でも、この信州の大きな寺の古い鐘の音がひびくところには、もつとも美しい杏の木の名所があるのですよ。それは安茂里と呼ぶ処です。安茂里は、善光寺の町とは裾花川といふ一つの流れをへだてたところに…