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故郷に帰りゆくこころ
こきょうにかえりゆくこころ |
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作品ID | 55726 |
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著者 | 嘉村 礒多 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻41 望郷」 作品社 1994(平成6)年7月25日 |
入力者 | 浦山敦子 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2022-11-30 / 2022-10-26 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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秋になつて来ると、何がなし故郷がなつかしまれる。村はづれの深山の紅葉とか、それから全体として山や水やを恋するやうな心持が頻りに強く動く。
周防の方に私の故郷の村がある。隣村は長門の国になつてゐて、そこに、長門峡、といふ奇勝がある。なんでもA川の上流が、七八里余り渓山の間を流れつづいて、べつだん村落が展けるでもなく、両岸には蒼潤の山が迫り、怪石奇巌駢び立つて、はげしい曲折の水が流れては急渓、湛へては深潭――といつた具合で、田山先生も曾遊の地らしく、耶馬渓などおよびもつかない、真に天下の絶景であると言つてゐられた。
その入口から二里くらゐ入つたところに雪舟の山荘の跡とつたへらるるところがある。そこらは川幅も広く、瑠璃一碧の水に山色を映して、ほんたうに高爽脱塵の境である。
私は秋になると、毎年、紅葉を見にそこへ行つた。何百年もの昔、旅の画家が、雨の降るとき、日の照るとき、くらくなるとき、あかるいとき、この山この水に対して、朝夕画道に専念したのであらうか? 徹底印象派ともいふべき雪舟の作品が、その取材の多くを支那の山水に求めてゐることは言ふまでもないが、この長門峡にも亦ひそかに負うてゐるのではないかしら。私は折があつたら専門の方に問うて見たいと思つてゐる。
雪舟が周防のY町の雲谷に住んでゐたのは、四十歳を五つ六つ過ぎた頃であらう。文芸復興期の明から帰つて来て、豊後にちよつとゐて、それから当時大内氏が領主であるY町に来たのである。室町幕府は義政ぐらゐのところで、京都よりY町の方が棲みいいと思つたのであらうか。Y町在のM村の常栄寺にも長い間寄食してゐて、その寺は大層気に入つたと見え、裏山に走り懸つた飛泉を引いて、支那の洞庭湖を模した庭を作つたりした。その庭は、その寺に遺された多くの仏画や山水画と共に国宝になつてゐる。他にも雪舟の作つた庭と伝へられるのが一二ヶ所ある。
「どうだ、和尚、支那流の庭を築いてやらうか。」
そんな風の押柄なことを言つて、寺から寺を歩いたかもしれん。或は、居候三ばい目には箸をおき、であつたかもしれん。おそらく後者であつたらうと私は信じてゐる。今でこそ、画聖と崇められ、名宝展などで朝野の貴顕に騒がれようとも、応永の昔の雪舟は高が雲水乞食に過ぎないのである。よし、当時は大内氏の全盛時代で、Y町の文化が[#挿絵]に京都を凌ぐものがあつたにしろ、他の通俗的な工芸美術の跋扈に圧倒されて、雪舟の墨絵ぐらゐ、それほど重きに置かるわけはない。
「おれは、北京の礼部院の壁画をかいて、あつちの天子共を駭かしてやつたわい。」
と、威張つて見たところで、さう本当に聞く人は沢山なかつたであらう。それにかれは峻峭な性質で、気節を以て自ら持してゐたから、領主の招きに応ずることもいさぎよしとしなかつたらしい痕跡がある。私は、Y町の県の図書館で、いろ/\読んでみたので…