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探検実記 地中の秘密
たんけんじっき ちちゅうのひみつ
作品ID55729
副題06 疑問の加瀬貝塚
06 ぎもんのかせかいづか
著者江見 水蔭
文字遣い旧字旧仮名
底本 「探檢實記 地中の秘密」 博文館
1909(明治42)年5月25日
入力者岡山勝美
校正者岡村和彦
公開 / 更新2021-09-17 / 2021-08-28
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

――彌生式土器の貝塚?――特種の遺跡――新に又貝塚――樽貝塚――疑問の貝塚――

 望蜀生が採集から歸つて來た。それは三十六年十一月三十日の夕方。
 何が有つたか。
 這んなのが有りましたと出して見せるのは、彌生式土器の上部(第五圖參照)と破片澤山及び木の葉底である。別に貝塚土器の網代底一箇。
[#挿絵]
第五圖(武藏北加瀬)
(彌生式土器上部)

『これは君、彌生式ぢやアないか』
『なる程※[#感嘆符三つ、47-9]』
 破片をツギ合せて見ると、徳利形の彌生式土器。とは知らずに望蜀生は貝塚土器と信じて掘つて來たのである。場所は何處だと聞くと、神奈川縣、橘樹郡、北加瀬村の貝塚。
 貝塚から彌生式が出る。其分量[#ルビの「そつぶんりやう」はママ]は普通の貝塚土器よりも、ずんと多量。
 貝塚に彌生式が混じたと言はうよりも、彌生式土器の出る貝塚に、他の土器が混じたと言ひたい位の分量である。
 いよ/\大問題。早速、水谷氏の處へ報告すると、氏は大いに喜んで、早速十二月に入つて、望蜀生と共に加瀬に行つた。
 發掘の結果、依然として多量の彌生式土器破片、及び同徳利形の上半部を(水谷氏、二箇。望蜀生、三箇)掘出した。
 それが貝層の四五尺下からである。曾て攪亂せる痕跡の無い貝層中からである。
 水谷氏も、余等も、彌生式に就ては、意見を發表せず、又別に有して居らなかつた時代である。
 この大問題たる彌生式に關してであるので、注意の上にも注意を加へて、其土器の出る状態を見た結果、彌生式貝塚として發表するに足る、特種の遺跡といふ事を確認した。
 それからいよ/\問題が大きく擴がつて、大學人類學教室で『彌生式研究會』が開かれ、其結果として、加瀬探檢の遠足會が催された。
 此遠足會位ゐ、不得要領の甚だしいのは無かつた。銘々勝手に分つた々々と自分の議論に都合の好い方にのみ眼を配つて、毫も學術的研究は行はれず、一方は後から彌生式が混入したと云ひ、一方は、否、然らずと云ひ。水掛論で終つて了つた。
 其後、三十九年七月に、マンロー氏を八木氏が引張つて行つて、大發掘を試みた。其報告の一部は人類學會雜誌に出て居るが、其研究の要點は新古二時代の貝塚が合して居る。下部の貝塚が、普通ので、其上に彌生式の貝塚が重なつて居るとか、たしかそんな事であつた。今雜誌が手元に無いので委しくは記されぬ。
 其以後、誰も手を附けぬ。漸く余が此前を素通りする位であつたが、四十年五月十二日に、余は、織田、高木、松見三子と表面採集に此邊へ來た。其時に(地底探檢記一五七頁參照)貝灰の原料とすべく土方が大發掘をして居たのを初めて知り、それから六月十四日に又一度行つて見たが、兩度とも實に大失望であつた。
 それは、二十坪ばかりの貝殼を、殘らず綺麗に取出して、他の藪の方に運び、其所で綺麗に、貝は貝、石は石、土は土と、篩で分けてあ…

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