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好人物
こうじんぶつ
作品ID55812
著者佐々木 邦
文字遣い新字新仮名
底本 「佐々木邦全集 補巻5 王将連盟 短篇」 講談社
1975(昭和50)年12月20日
初出「婦人画報」1925(大正14)年5月~12月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者芝裕久
公開 / 更新2021-03-14 / 2021-05-27
長さの目安約 108 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

子供のない家庭

「安子や、一寸見ておくれ」
 と千吉君は家へ帰って和服に着替えると直ぐに細君を呼んだ。出入り送り迎えは欠かさないが、着替えの手伝いまでしてくれる時代はもう疾うに過ぎ去っている。結婚して六七年になれば細君も良人を理解する。この人ならこれぐらいで沢山と略[#挿絵]見当がついて、待遇が自ら定って来る。但し粗末にするという意味では決してない。自分の都合の好い折丈け勤めて置く。気の向いた時には特に念を入れて、
「まあ、ひどい埃だこと!」
 なぞと、大袈裟な表情諸共、帽子にブラシをかけて渡すことさえある。良人はその間玄関に待たされていても苦情に思わない。矢張り安子はよく気がつく、と一寸の間でも新婚当時の心持に戻る。細君の側に於ても、これ丈けのことをして置けば、まさかの場合に言う丈けのことが言える。
「おい、安子、刺が立ったんだよ」
 と千吉君は再び呼んだ。
「はい、唯今」
 と細君は台所から出て来て、
「何うかなさいましたの?」
「指に刺を通したんだよ。この爪の間に見えるだろう?」
 と千吉君は右の手の中指を突き出して、
「馬鹿を見た、一寸電信柱へ触ったばかりに」
「これは取れませんわ、毛抜きでなくちゃ」
 と細君は毛抜きを持って来て試みたが、矢張り思わしくない。
「針で取りましょう」
「痛いだろうね?」
 と千吉君は意気地のないことを言う。
「少しの我慢ですわ」
 と細君は無論自分の我慢でない。早速針の先を焼いて何等の躊躇もなく荒療治に取りかゝった。
「痛い/\!」
「でも少し掘らなけりゃ取れませんもの」
「他の指だと思ってひどいことをしてくれるな。爪の肉はクイックといって身体中で一番痛いところになっている」
 と千吉君は余り痛いので、学校時代に習った英語を思いだした。
「これじゃ手が逆ですから何うしても駄目ですわ。斯う坐り直って下さい」
 と細君も自ら居住いを換えて、
「斯うよ」
 と横から良人を抱くように構えた。しかし深く食い込んでいるので容易に抜けない。間もなく針先の都合上夫婦は悉皆寄り添ってしまって、頬と頬が触れ合うばかりになった。
「おゝ痛い!」
「然う動いちゃ駄目よ」
「療治が荒いんだもの、お前のは」
「動くからですわ。もう少しよ……取れたわ、到頭」
 ところへ細君の姪が二階から下りて来て襖を明けたが、
「あら、御免下さい」
 と慌てゝピシャリと又締めた。
「宜いのよ、八千代さん」
 と言う一方細君は、
「お退きなさいよ」
 と良人を突き飛ばした。千吉君は不意を食って[#挿絵]ったまゝ、
「ハッハヽヽヽ」
 と力なく笑い出した。同時に何か落して破った音が台所から聞えたので、
「お里も覗いていたんだよ。若いものは妙に気を廻して困る」
 八千代さんは再び襖を明けて、今度は安心して入って来た。
「お帰り遊ばせ」
「指に刺を立てゝね、叔母さんに取…

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