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或る別れ
あるわかれ
作品ID55832
著者北尾 亀男
文字遣い新字新仮名
底本 「日本掌編小説秀作選 下 花・暦篇」 光文社文庫、光文社
1987(昭和62)年12月20日
入力者sogo
校正者noriko saito
公開 / 更新2015-08-25 / 2015-05-24
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


娘      人妻
隣家の人々  主人、男の子、主人の老母
葬儀人夫甲乙

山の手の或る公園
大正大地震の翌春――花時には稀な晴れた日の午前。正面と下手にバラック。その間は細い路次で、奥深いバラック長家の心。正面のは入口が路次に面していて、(見物には)明りとりの小さな窓のあるはめ板が見えるだけで、下手のよりもやや奥まっている。窓には障子がはめてあり、その下に家の端から端に一本の細引が渡してある。下手のバラックは正面の入口の雨戸が半開きになっていて、その一枚に「忌中」の札が貼ってある。上手に一本の大きな立派な桜の樹が、今を盛りに咲き乱れている。そしてこれ等の周囲には樹々の若々しい青葉が繁っている。
桜の樹の下に一脚のベンチ、そこに葬儀人夫二人が腰かけている。甲は新聞を読み、乙はぼんやりと地上を眺めている。正面のバラックの前で、娘(二十歳位)が洗濯をし終った心で、一枚一枚絞りながらバケツに入れている。やがてそれを提げ、片手に盥をもって上手へ去る。
やや間。下手から貧し気な風をした父(五十四五歳)が出て来て、ものを尋ねる心でバラックを一軒一軒覗きながら、正面の路次の中へ去る。上手から娘が洗濯物を入れたバケツ、盥などを提げて出て来て、窓の下の細引に通して干す。正面の路次から父が出て来る。ふと娘を見る。娘も父を見る。同時に、

父 おおお雪!
娘 ああお父さん、……まあ!
父 (嬉しそうに)矢張りお前だったんだな。
娘 まあお父さん。(涙が出る)よくねえ!
父 ここにいるのか。そうか、そりゃまあ何よりだ。達者で何よりだった。
娘 お父さんもよくねえ。今何処に?
父 麻布の方にいるよ。なにね、実はきのう越前堀まで用達に行ったら、途中であの山田の息子さんね、あの新太郎さん、あの人に逢って、この近所でお前によく似た人を見かけたと云うから若しやそうじゃないかと思って、出かけて来たのさ。
娘 あらそう、兄さんも矢張無事で……?
父 兄さんは矢っ張り……駄目らしいね。
娘 え、駄目? まだ分らないの?
父 うむ、まだ分らない!
娘 お父さん、その後、あっちへ行って? 月島へ?
父 うむ、兄さんかお前かに逢うかと思ってね、先のうちはよく行って見たけれど、近処で訊いても一向お前等を見かけた人もないので、この頃はもう……。
娘 私、お父さんは兄さんと一緒にいるとばかり思っていたのよ。
父 中々どうして。
娘 月島へも二三度行って見たけど、まだその頃は何もなくって、誰にも逢わないし、尋ねようがないんで……。
父 そうだったろうとも。で、お前はいつから此処に来ているのだい?
娘 (済まない心で)間もなくでした。
父 そうか。それはまあよかった。それに此処のバラックは、よそより大へん丁寧に出来ているようだね。これなら寒中そう寒くもなかったろう?
娘 ええ、日当りがいいから。
父 どこだい…

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