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本所松坂町
ほんじょまつざかちょう
作品ID55844
著者尾崎 士郎
文字遣い新字新仮名
底本 「仇討騒動異聞 時代小説の楽しみ⑩」 新潮社
1991(平成3)年2月5日
入力者sogo
校正者フクポー
公開 / 更新2018-02-19 / 2018-01-27
長さの目安約 56 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

吉良の殿様よい殿様
赤いお馬の見廻りも
浪士にうたれてそれからは
仕様がないではないかいな、――
 巷間に流布されている俗謡は吉良郷民の心理を諷したものであろう。まったく仕様がない。メイファーズである。人間万事塞翁が馬、――何が起るか見当もつかないところに人間の宿命があるのであろう。終りよければすべてよしというのはシェークスピアの戯曲であるが、家庭を愛し、隣人に慕われ、善行という善行のかぎりをつくし、人生の行路ようやく終りに近づこうとするに及んで、運命がだしぬけに逆転する。
 もし、私の郷里の殿様である吉良上野が元禄十三年の秋、中風か何かで死んでいたとしたら、終戦後、戦争に関係のある英雄豪傑がことごとく抹殺された今日の歴史教科書の中においては追放をうけない史上の人物として、メモランダムケースによる「好ましからざる人物」の折紙をつけられる筈もなく、名君吉良上野の令名は日本全国を風靡していたであろう。
 まったく惜しいことをしたものである。幸不幸、運不運のわかれ目は間一髪、しまったと思ったときはもうおそい。因果応報なぞというのは嘘の皮である。
 私の郷里は正確にいうと愛知県幡豆郡横須賀村であるが通称「吉良郷」と呼ばれ、後年この土地に任侠の気風が汪然として沸ぎりたったのも、彼等が尊敬措く能わざる領主、吉良上野に対する愛情の思い止みがたきものに端を発しているといえないこともない。いやいえないどころか、世を怨み、運命に憤る庶民の感情は三百年間、大地に沁みとおる水のごとく綿々として今につづいているのである。
 もし嘘だと思ったら「吉良郷」まで行ってごらんになるといい。諸君がもし足一歩、横須賀村へ入って吉良上野の悪口を一言半句でも囁いたら、どんな結果を生ずるか、私(作者)といえども軽々しく保証のかぎりではない。
 村には「吉良史蹟保存会」というものがあって、名君行状の数々は余すところなく調査しつくされているが、「保存会」から刊行しているパンフレットの中にある年譜にも次のような一節が書き加えられている。
「世俗吉良上野介につきて誤伝されあるもの枚挙に遑あらず、これすべて芝居浪花節の題をもって史実なりと誤認するより起る。宮迫村出生の清水一学、岡山出生の鳥居理右衛門、乙川出生の斎藤清左衛門等を、松の間刃傷後、上杉家より護衛のため附け人として来たるというがごときその一例にして真に嗤うに堪えぬ、云々」
 嗤うに堪えぬ。どころか彼等の怒りは心頭に発しているのである。私の少年時代には吉良上野顕彰の意味をふくめて郷土人形の赤馬をつくる「赤馬会」というものがあった。赤馬は上野介の愛撫した彼の乗馬である。江戸から、毎年のように領地へ帰ってくるごとに、彼は一人の従者もつれず領内の巡視に出かける。そのときの上野介は宗匠頭巾をかぶった好々爺で彼は道で、すれちがう誰彼の差別もなく、和やかな微笑を湛え…

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