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餓えた人々
うえたひとびと |
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作品ID | 55964 |
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原題 | DIE HUNGERNDEN |
著者 | マン パウル・トーマス Ⓦ |
翻訳者 | 実吉 捷郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店 1979(昭和54)年3月16日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 酒井裕二 |
公開 / 更新 | 2015-05-09 / 2015-03-08 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
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デトレフは自分が余計者だという感じに、胸の底までおそわれるのを覚えた瞬間、まるで偶然のように、賑やかな人ごみに身をただよわせて、別れの挨拶もせず、あの二人の人の子の視線から消えてしまった。
彼が身をゆだねた人波は、豊麗な劇場内の一つの側壁に添うて、彼を運んで行った。そしてリリイとあの小さな画家から、ずっと遠のいたと思った時、はじめて彼は流れに逆らって、しっかりと踏みとどまった。そこは舞台の近くで、彼は特等席の、こってりと金で飾られた張出しのところへ身をもたせながら、ひげだらけなバロック式の男体支柱が、重そうに背を丸めているのと、それの対に当る女体が、張り切った両の乳房を、場内へ突き出しているのとの間に立ったのである。時々、オペラグラスを眼へあてがいながら、彼は精々できるだけ、気楽そうな観照の態度を示すことに努めた。ただし彼の四方へさまよう視線は、輝かしい一円のうち、ただ一点だけは避けていた。
祝宴はたけなわであった。張り出した特等席の奥では、整えられたテエブルについて、みんな食べたり飲んだりしているし、張出しのへりのところでは、黒や色の燕尾服を着て、ボタンの穴に大きな菊の花をさした紳士たちが、奇抜な衣裳に、調子外れな髪を結った淑女たちの、白粉を塗った肩のほうへ身をかがめて、なにかしゃべりながら、場内のめまぐるしい群衆を指さしている。群衆はいくつものかたまりにわかれたり、流れるように押して行ったり、せきとめられたり、渦をなしてもつれ合ったり、と思うと、すばやく色を入り乱れさせながら、またすっと解けてしまったりする。
女たちは流れるような衣裳で、小舟に似た形の帽子を、けばけばしいリボンであごの下にとめて、長い杖にもたれながら、長柄の眼鏡を眼にあてている。男たちのたるませた袖は、ほとんど灰色のシルクハットにとどくくらいふくれあがっている。――大声の軽口が桟敷のほうへ飛び上ってゆくと、そこではビイルやシャンパンの盃が、挨拶として挙げられる。みんなあおむきながら、幕のあいている舞台の前でひしめいている。舞台では華やかにそうぞうしく、なにかある奇警なことが演ぜられていた。やがて垂れ幕がさらさらとしまると、みんなは哄笑と喝采のうちに散り散りになって、あとへ戻った。楽隊がとどろく。みんなは緩やかな足どりで、入り乱れながら押し合った。そうしてこの壮麗な広間にあふれた、昼よりもずっと明るい黄金色の光が、みんなの眼をきらきらと輝かせている間に、みんなは急調子な、あてもなく人を求めるような息づかいで、花や葡萄酒や料理、埃、白粉、香料、それからうたげにのぼせた肉体などの、暖かい昂奮させるようないきれを、吸い込んでいる。――
楽隊がはたとやんだ。みんなは互いに腕を組んだなり立ちどまって、笑いながら舞台のほうを見た。舞台では蛙の鳴くような、溜息のような音とともに、なにかまた別の…