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小フリイデマン氏
しょうフリイデマンし
作品ID55968
原題DER KLEINE HERR FRIEDEMANN
著者マン パウル・トーマス
翻訳者実吉 捷郎
文字遣い新字新仮名
底本 「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店
1979(昭和54)年3月16日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2015-04-15 / 2015-03-08
長さの目安約 50 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 とがは乳母にあった。――最初あやしいと思った時、フリイデマン領事夫人は、そんな悪徳はおさえつけてしまえと、本気になって彼女にいい聞かせたのだが、それがなんの役に立ったろう。今度は滋養になるビイルのほかに、なお赤葡萄酒を毎日一杯ずつ飲ませたのだけれど、それもなんの役に立ったろう。この女があさましくもその上、アルコオル・ランプに使うはずのアルコオルまで、平気で飲むということが、急にわかってしまったのである。そして代りの女中が来ないので、この女に暇をやることができないでいるうちに、あの凶事が持ち上ってしまった。母と、まだ子供っぽい三人の娘たちとが、ある日外から帰って来ると、小さい、生後一カ月ばかりのヨハンネスが、襁褓台からころげ落ちたなり、気味の悪いほどかすかなうめき声を立てながら、床の上に横たわっていて、そのそばに、乳母がぼんやり突っ立っていたのである。
 医者は、ちぢこまってぴくぴく動いている嬰児の四肢を、慎重な確かさで調べてみて、それはそれはむずかしい顔をした。娘たち三人はすすり泣きながら片隅に立っていた。フリイデマン夫人は心痛のあまり、声に出して祈っていた。
 あわれな夫人は、まだこの児が生れぬ前に、オランダ領事だった良人を、ある突然なしかもはげしい病気のためにうばい去られるという目に、会わなければならなかった。だから、まだあまりに心が弱っていて、小さいヨハンネスの命が取止められるようにと、希望するだけの気力さえなかったのである。しかし二日の後、医者がはげますように夫人の手を握りながら、述べるには、今が今どうということは、もはや断じてない、第一に脳の軽い障害はすっかりなおってしまった、それは視線に、はじめのように見据えたようなところがもうちっともなくなってしまったのでもわかる……もちろん、そのほかの点が、この先どう経過してゆくか、それを待つより仕方がないが――ともかく最善を期することだ、先刻もいったように、最善を期することだ……

 ヨハンネス・フリイデマンの育った灰色の破風家は、この古い、やっと中ぐらいな商業都市の、北に寄った都門のそばにあった。大扉を入ると、ひろやかな、床石を敷きつめた玄関に来る。そこから白く塗った木の欄干のある階段が、上階へ通じている。二階の居間の壁布には、色のあせた風景が描いてあり、濃紅の粗ビロオドの布をかけた、どっしりしたマホガニイの卓のまわりには、堅い背の椅子がいくつか置いてある。
 ヨハンネスは子供の時分、よくこの部屋のいつもきれいな花に飾られた窓際で、小さな足台に乗ったまま、母の足もとに坐っていた。そして母の滑らかな灰色の髪と、人の好い柔和な顔をながめながら、またたえず母のからだから溢れている、かすかな香りを吸いながら、なにか面白いお伽噺に聴き入っていた。でなければ、父の肖像を見せてもらうようなこともあった。それは灰色の頬…

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