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鉄道事故
てつどうじこ |
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作品ID | 55970 |
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原題 | DAS EISENBAHNUNGLÜCK |
著者 | マン パウル・トーマス Ⓦ |
翻訳者 | 実吉 捷郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店 1979(昭和54)年3月16日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 酒井裕二 |
公開 / 更新 | 2015-05-15 / 2015-03-08 |
長さの目安 | 約 21 ページ(500字/頁で計算) |
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なにか話せ? しかしなんにも知らないのだがね。まあいいや。じゃなにか話すとしよう。
もう二年になるが、一度僕は汽車の事故に出くわしたことがあるのだ――一々のこまかいことまで、みんなありありと眼に残っているよ。
そりゃ決して最大級のやつじゃなかった。「弁別しがたき無数の死者」とかなんとかいうような、大げさなやつじゃなかった。そんなのとは違う。でもやっぱり、あらゆる附録の備わった、正真正銘の鉄道事故でね、しかもおまけに夜あったんだ。こんな目にあった人はそうざらにはあるまい。だから、それをひとつお聞かせしよう。
僕はその時、ドレスデンへむかう途中だった。文学奨励者たちに招待せられてね。つまり芸術行脚、名匠行脚という、僕が今でも時々出かけるのにやぶさかでないやつさ。代表者になる。演壇に昇る。喝采する群衆に姿を示す。ヴィルヘルム二世の臣たるに恥じずというわけだ。それにまたドレスデンは全くいいところだからな(ことにあの牙城はね)。そして僕は用がすんだら、十日か二週間ぐらい、いささか英気を養うために、「ワイセル・ヒルシュ」へ行って、摂生の結果、霊感でも得られたら、また仕事もしてみるつもりだった。という次第で、鞄の一番底には、原稿を入れておいた。備忘録と一緒にしてね。茶色の包み紙でくるんだ上を、バイエルンの国色の太い紐でしばった、どうどうたるひと包みさ。
旅行は贅沢にするのが僕はすきだ、ことに旅費がむこう持ちならね。そこで寝台車を利用することにして、前の日に一等の車房を予約してしまった。だから、もう大丈夫なのだ。それだのに、こういう場合いつもそうなのだが、なんだかわくわくしてしまってね。なぜといって、旅立ちというものは、いつだって一つの冒険だもの。どうも僕はいつになっても、交通機関に対して全然平気になりきることはなさそうだよ。ドレスデン行の夜汽車が、毎晩きまって、ミュンヘンの中央停車場を出て、毎朝ドレスデンに着くということは、わかりきっているのだが、さて僕自身がその列車に乗ってだね、僕の大事な運命を、その列車の運命に結びつけるとなれば、そりゃやっぱり正に大事件だからな。そうなると僕は、その列車がただその日だけ、しかもひとえに僕のために出るんじゃないかというような考えを、どうしても禁じ得ないのだ。そしてこの不合理な迷誤の結果として、いきおい或るひそかな深い興奮がおこってくる。出発についてのあらゆる面倒――鞄を詰める、荷物を乗せた辻馬車で停車場にかけつける、停車場に着く、荷物を預ける――それがみんなすんでしまったうえ、とうとうちゃんと座席について、これで安心と思うまでは、その興奮はおさまらないのだね。もちろんそうなれば、緊張が快く解けてくる。頭は新しい事物にむかう。ガラス屋根のまるく張ったむこうには、大きな異境がひらけている。そうして喜ばしい期待が、心を占めるというわ…