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道化者
どうけもの |
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作品ID | 55971 |
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原題 | DER BAJAZZO |
著者 | マン パウル・トーマス Ⓦ |
翻訳者 | 実吉 捷郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店 1979(昭和54)年3月16日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 酒井裕二 |
公開 / 更新 | 2015-04-18 / 2015-03-08 |
長さの目安 | 約 59 ページ(500字/頁で計算) |
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いっさいの結末として、かつ立派な大詰として、いや、あのことの全体として、今残っているものは、生活――おれの生活――が「そのいっさい」、「その全体」がおれの心に注ぎ込む、あの嫌厭ばかりである。おれを絞めつけおれを駆り立て、おれをゆすぶってはまた投げ倒す、あの嫌厭である。おれにこのばかげたくだらない用向きを、残らずさっさと片づけて、逃げ出してしまうだけの動力を、おそらく早晩与えてくれる、あの嫌厭である。とはいえもちろん、おれはまだ今月か来月ぐらいは、こうやってゆくかもしれないし、あと四半年か半年ぐらいは、食ったり眠ったり、いろいろ用を足したりしつづけるかもしれない――この冬中おれの外面生活が過ぎたのと同様、機械的な、よく整ったおちついた調子で、かつおれの内部の荒涼たる分解作用と凄まじく相闘っているあの調子で。人間の内的体験というものは、その人間が、外的に束縛のない超世間な平穏な生きかたをしていればいるほど、ますます力強くますます心を疲らすようになりはしまいか。だが、どうにもならない。生きてゆくよりほかに仕方がないのである。活動の人となることを避けて、どんなに閑寂な荒野へ引っ込んだところで、人生の転変は内面的におそってくるだろうから、たとえ英雄であろうとばか者であろうと、ともかくその転変のうちに、自己の性格の真価を発揮せねばならぬであろう。
おれはこの小綺麗な帳面を用意して、その中におれの「身の上話」を物語るつもりでいる。いったいなぜだろう。おそらくともかくもなにかしら仕事をするためかしら。あるいは心理的なことを喜ぶ心持からと、その心理的なこと全体の必然性を味わい楽しもうという気持からかもしれない。必然性というものは実に慰めになるものだから。またもしかすると、ちょっとのあいだ、自分自身に対する一種の優越感と無関心、といったようなものを享楽するためでもあろうか。なぜといって無関心――それは一種の幸福だということをおれは知っている。
あれは、ずうっと裏手のほうにある。あの小さな古い町は。狭い、曲り角の多い、破風屋根のつづいた街路と、ゴシック風の教会や噴水と、働き好きな物堅い素朴な人々と、それからおれの育った、大きな古色蒼然たる邸宅とを持ったあの町は。
その家は町の中央にあって、裕福で徳望のある紳商の家族が、四代もそこに住みつづけていた。「祈れよ、働けよ」というラテン語の文句が、表口の上に書いてある。上のほうに、白塗りの木造の廻廊がぐるりと取りつけられた、広い石だたみの玄関から入って、幅のひろい階段を昇りつくしても、なおその上り口のひろい床と、小さな暗い柱廊とを通り抜けなければ、高い白い扉の一つを潜って、居間に達することはできなかった。そこではおれの母親が、グランド・ピアノの前に坐ってなにか弾いていたものである。
母親は薄明の中に坐っていた。窓々には、重たい…