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悩みのひととき
なやみのひととき
作品ID55973
原題SCHWERE STUNDE
著者マン パウル・トーマス
翻訳者実吉 捷郎
文字遣い新字新仮名
底本 「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店
1979(昭和54)年3月16日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2015-05-18 / 2015-03-08
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 彼は机から――例の小さいこわれそうな書物台から立ちあがって、絶望した人のごとく立ちあがって、首を垂れたまま、部屋の反対の隅にある煖炉のほうへ歩いて行った。煖炉の円柱のように長くすらりとできている、炉瓦のところに両手をあててみたが、なにしろもう真夜中はとうに過ぎているので、炉瓦はほとんど冷えきっていた。そこで、求めていた小さな快感を味わいそこねた彼は、炉瓦に背をもたせて、咳をしながら、ねまきの裾を合わせた。胸の折り返しから、洗いざらしのレエスの縁飾りが垂れさがっている。それから少し呼吸を楽にしようとして、大儀そうに鼻をふんふんいわせた。例によって鼻風邪を引いているのである。
 これは一種特別な気味の悪い鼻風邪で、すっかりなおったということがほとんどない。瞼はただれているし、鼻孔のふちはすりむけている。そして頭の中にも、からだの節々にも、この鼻風邪は重たい悩ましい陶酔のようによどんでいるのである。それともこんなにだるく重苦しいのは、医者からまたしても、数週間以来課せられている、不愉快な蟄居のせいであろうか。こんなにしているのが、果してためになるものやら。慢性カタルと、胸や下腹の痙攣とが、この蟄居を余儀なくさせたのであろう。それにまたこのイェナには、何週間も何週間も前から、険悪な天候がつづいている。たしかにそうだ。みじめな憎むべき天候が、荒涼と暗く冷たくつづいているのだ。そして十二月の風は炉筒の中で、神にも人にも見離されたようにほえている。聞いていると、嵐の吹く荒野のような、迷妄のような、魂のいやされぬ歎きのようなひびきがするくらいである。しかしこうやって窮屈にとじこめられているのはよくない。思想のために、その思想の源をなす血のリズムのためによくない。――
 六角形の部屋――索漠として無味で居心地が悪く、白塗りの天井の下にはたばこの烟がただよい、斜めに格子縞のついた壁紙には、卵形の額に入った影絵がかかり、なお脚の細い家具が四つ五つあるこの部屋は、二本のろうそくで照らされている。ろうそくは書物台の上に、原稿の頭のところで燃えているのである。窓の上枠には、赤い帷がかかっている。帷といっても、小さな旗にすぎない。左右を同じように絞ってある更紗にすぎない。だが、それは赤い。暖かな朗かな赤である。彼はこの帷を好いている。決して手放すまいと思っている。なぜならこの帷のおかげで、彼の部屋の非感覚的禁慾的なみすぼらしさが、幾分か豊潤と悦楽とのおもむきを獲ているからである。――
 煖炉のそばにたたずんだなり、痛そうに力をこめてせわしく一つまたたきながら、彼は自分の作品のほうを眺めやった。この作品から――この重荷、この圧迫、この良心の苛責、この飲みほすべき海から、彼の誇りで同時に不幸、彼の天国で同時に地獄であるこのおそろしい事業から、彼はさっき逃げ出したのである。それは遅々として進…

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