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予言者の家で
よげんしゃのいえで |
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作品ID | 55975 |
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原題 | BEIM PROPHETEN |
著者 | マン パウル・トーマス Ⓦ |
翻訳者 | 実吉 捷郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店 1979(昭和54)年3月16日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 酒井裕二 |
公開 / 更新 | 2015-05-18 / 2015-03-08 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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奇妙な場所が、奇妙な脳髄が、精神の棲む奇妙な領域がある――高いところに、みすぼらしく。街燈の数が次第に乏しくなって、憲兵が二人ずつ歩くあの大都会の場末で、われわれは家々の階段を、もうこれ以上昇れぬというところまで昇らねばならぬ。若い蒼白な天才たち――夢の犯罪者たちが腕をこまぬいたなり、物思いにふけっている、あの斜めになった屋根部屋まで、孤独の、激越な、心をむしばまれた芸術家たちが餓えながらも昂然と、たばこの烟の中で、最後の荒涼たる理想と闘っている、あの安価に、しかも意味深く装飾せられた工房まで。ここには終局と氷と純粋と虚無とがある。ここではいかなる契約も、譲歩も寛容も尺度も価値も通用しない。ここの空気は、人生の毒素がもはや生長せぬほど、稀薄で純潔なのである。ここには、強情と極端な徹底と、絶望的に玉座を占めた自我と自由と狂気と、そして死とが君臨している。
それは受難日の晩八時だった。ダニエルに招かれた客のうち、数人が同じ時刻にやって来た。彼等は四つ折判の招待状をもらっていた。それには抜身を爪につかんだまま空を飛んでいる鷲がついていて、受難日の夕にダニエルの宣言書朗読の会へ出てくれるようにという勧誘が、独得の字体で書いてあった。そこで彼等は定刻に、ものさびれた薄暗い場末の街の、平凡な借家の前に落ち合った。その予言者の仮住居は、この家の中にあるのだった。
客の中には見知り越しのがあって、互いに挨拶を交した。ポオランド生れの画家と、彼と同棲しているやせぎすな少女、せいの高い黒い髯をはやしたユダヤ種の抒情詩人と、垂れさがったような衣裳の、肥った蒼白いその妻、勇壮な同時に病弱な容子をした人――交霊信者の退職騎兵大尉と、それからカンガルウのような風采の若い哲学者などである。ただ、山高帽で、手入れのいい口ひげをたくわえた小説家だけは、一人も知己がなかった。別の世界から来て、偶然ここへまぎれ込んだにすぎぬのである。彼は人生に対してある交渉を持っている人間で、彼の著書は普通人の間で読まれている。彼はどこまでも謙遜に、感謝しながら、つまり大まかにいえば、大目に見られている者のごとく振舞うことにきめていた。ほかの人たちのあとから、少し離れて、彼は家の中へ入って行った。
みんなは鋳鉄の手摺につかまりながら、順々に階段を昇って行った。みんな黙っている。言葉の値打を知っていて、むだ口なんぞ利くことのない人々なのである。階段の曲り角の窓縁にのせてある、小さな石油ランプのほの暗い光で、通りすがりに、住居の扉にある名前が読まれた。みんなは保険会社員だの、産婆だの、高等洗濯婦だの、「代理人」だの、胼胝治療者だのの住宅や仕事場などを通りすぎて、物静かに、侮蔑の心はないが、縁遠い気持で昇って行く。狭い階段を薄暗い竪坑でも昇るように、従容として、立ちどまりもせずに昇って行く。なぜならあの上のほ…