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トリスタン
トリスタン |
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作品ID | 55977 |
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原題 | TRISTAN |
著者 | マン パウル・トーマス Ⓦ |
翻訳者 | 実吉 捷郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店 1979(昭和54)年3月16日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 酒井裕二 |
公開 / 更新 | 2015-04-21 / 2015-03-08 |
長さの目安 | 約 88 ページ(500字/頁で計算) |
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ここは療養院「アインフリイト」である。横に長いその本館と、それから側翼とは、白く直線的に、広い庭園の真中に横たわっている。庭園には、岩窟や外廊や樹皮でつくった小亭などが、面白くしつらえてある。そして療院のスレエト屋根の向うには、樅の色も蒼々と、おおらかに、柔かな裂目を見せながら、山々が空高くそびえ立っている。
ここの院長は、前からずっとレアンデル博士である。家具に詰める馬の毛のように、剛く縮れた黒い八字髭と、厚いぎらぎらする眼鏡と、科学で冷たく堅くなった、そして静かな寛やかな厭世観でみたされた男の外貌とをもって、博士は簡潔な寡黙な態度で患者たちを――自分で法則を立ててそれを守るにはあまり弱すぎるところから、彼の厳格さに身を支えてもらえるようにと、彼にその財産を提供している人々すべてを、その掌中に収めている。
フォン・オステルロオ嬢のことをいうなら、彼女は不撓の献身をもって、事務をつかさどっている。いやまったく、彼女はなんとまめまめしく階段を上下しては、療院の端から端までかけ廻っていることだろう。台所や貯蔵室で采配を振る。洗濯戸棚の中をあちこちよじ昇る。使用人たちに号令をくだす。そして節倹と衛生と美味と、それから体裁のよさとを基にして、院の食卓を按排する。彼女は気違いじみるほど小心翼々として、世帯を取り締るのである。そうしてこの極端な活躍の裏には、男性全体に向ってのたえざる非難が潜んでいる。男性のうちまだ誰一人として、彼女を娶ろうなんぞと思いついた者はないのであった。しかし彼女の両頬には、いつかはレアンデル博士夫人になりたいという、消しがたい希望が、二つのまるい真赤な斑点になって燃えている……
オゾオンと、静かな静かな空気……肺患者に向って、この「アインフリイト」は、たとえレアンデル博士の羨望者や競争者が何をいおうとも、最も熱心にすすめることができる。ただしここには肺結核病者ばかりでなく、あらゆる種類の病人――男子も婦人も、また子供までも逗留している。レアンデル博士は、きわめて多方面にわたって成果を挙げているのである。この療院には、シュパッツ市会議員夫人のように、胃の悪いのもいれば(この人はそのうえ耳もわずらっている)、心臓に故障のある人たちもいるし、中風患者、リュウマチス患者、それからあらゆる程度の神経病者もいる。ある糖尿病の将軍も、たえずぶつぶついいながら、ここで恩給を消耗している。頬のこけた数人の紳士は、あのよくない徴候の、だらけた様子で、脚を投げ出すようにして歩いている。ある五十歳の婦人――ヘエレンラウフ牧師夫人は、十九人の子供を生んで、もう考えるということが絶対にできなくなっているのだが、それでもなお静穏の域に達せず、あるおじけた焦躁にかりたてられて、すでに一年このかた、附添看護婦の腕にすがったまま、凝然と無言であてもなく、薄気味悪く療院中を…