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奥秩父の山旅日記
おくちちぶのやまたびにっき |
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作品ID | 55980 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 上」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年6月15日 |
初出 | 「山岳」1916(大正5)年10月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2013-07-18 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 70 ページ(500字/頁で計算) |
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私が始めて秩父の山々から受けた最も強い印象は、其色彩の美しいこと及び其連嶺の長大なることであった。水蒸気の代りに絹針でも包んだような上州名物の涸風が、木の葉色づく十月の半過ぎから雪の白い越後界の山脈を超えて、収穫に忙しい人々の肌を刺すように吹きすさむ日が続くと、冬枯の色は早くも樹々の梢に上って、日蔭には霜柱が白く、咽ぶような幽韻な音を間遠に送る大和スズの声を名残として、大地は漸く静寂の眠に就こうとする。此頃からして秩父の群山は其翠緑の衣を脱ぎ捨てて、最も目覚ましい絢爛の粧を凝らすのである。「秩父山が見えて来た」里人の口から出る此の無造作の一言の中に、どれだけの深い意味が含まれているかは、斯ういう人達の日常の言葉を注意して味わっている人には、容易に洞察することが出来ようと思う。
実に秩父の山々は、私の生れ故郷東上州から眺めては、初冬から一月下旬にかけて素晴らしく豊富な色彩を現わす。そして其色には深い深い神秘が包まれている。美しいと共に崇高である。然しそれは北アルプスの雪の山が、山それ自身が高大である為の崇高ではない。或は杉並木の奥からほの見ゆる丹塗りの御社の「神」を予想した為の崇高でもない。全く山の色の深さのみから生ずる崇高である。山に雪が深くなるに連れて此の豊富な色彩は次第に其量を減じて来る。二月から三月にかけて白雪山谷を埋めた頃が、最も色彩の乏しい時であるのは云う迄もない。
十月は麦蒔の畑打ちに忙しい。男も女も皆仕事に出る。頬冠りの男の中に交って赤い襷の女も一緒に礫を打っている。振り上げる鍬の刃先がキラリキラリと光る向うには、秩父の山々が美しく聳えている。昼に弁当とお茶を持って其処に行くと、皆が畔に腰を掛けて食事を始める。立てて置いた鍬の柄に赤蜻蛉が止って、その尻っぽの先が高い山の巓とすれすれになっている。何か羽虫を見付るとすういと飛んで行く、そしてスミスの飛行よりももっと巧妙に一つくるりと宙返りを打って復たすういと戻って来る。秩父山は依然としてこの小さな活動の舞台に美しい背景を与えて、夫が日毎に繰り返される間に、山の色の深い秘密というようなものが、子供心の何処かの隅に朧げながらも印象の痕を残し止めて、何かの機会を捉えては急激に鮮明の度を増して行くらしい。
十二月に入ると薪取りや木の葉掻きが始まる。寒い赤城颪に吹かれ冷い朝霜を踏んで凍えた体を、焚火に暖めてからゆっくり仕事に取懸る。私は家の男達に連れられて林に行くのが楽しみであった。人並に研ぎすました大鎌を腰にさして兎や雉子を追い出しては遊んでいる。小松林の上や楢林の木の間に濃い鮮な秩父山の姿が浮き出したり織り込まれたりするのを見ると、大きな木の上に登って邪魔な枝を叩き切りなどして訳もなく喜んでいる。私の目と高い山とを維ぐ糸の上を渡り鳥の群れが往ったり来たりする。時には一羽の鷹が不図私の魂をのせて紫…