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黒部川を遡る
くろべがわをのぼる
作品ID55995
著者木暮 理太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山の憶い出 上」 平凡社ライブラリー、平凡社
1999(平成11)年6月15日
初出「登山とはいきんぐ」1935(昭和10)年9月
入力者栗原晶子
校正者雪森
公開 / 更新2013-11-05 / 2014-09-16
長さの目安約 44 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

はしがき

 我国の一大峡流である黒部川の全貌が完全に世に紹介されるに至ったのは、誰が何と言っても、これは立山後立山両山脈の山々と其抱擁する谷々とに限りなき興味を有し、就中立山連峰と黒部峡谷とを礼讃して措かざる冠君の数年に亘りて惓むことを知らない努力の結果であることは、動かす可からざる事実であり、又よく人の知っている通りである。されば纔に黒部の片鱗を窺い見たに過ぎない私などは、いつも之に対して感嘆久しうして止まないのであった。其当時はよく冠君の訪問を受けて、山の話に夢中になってしまった二人は、玄関に置いた靴や冠君の蝙蝠傘を盗み去られたことを、すぐ隣りの室に居ながら少しも知らずにいたことなどもあった。話の落ち行く先は大抵黒部ときまっていた。そして探検の度毎に同君の齎し帰る新しい黒部の秘境に聞き入りつつ私の心は躍った。しかし冠君のように時の自由を持たない私は、残念ながら同君と行を共にし得る機会は一回も無かったのである。
 黒部峡谷は斯く大正の末期から昭和の初にかけて、始めて探られたものであるとはいえ、旧加賀藩の時代に於ても山廻り役なるものがあって、数年毎に黒部奥山を巡視し、其間黒部川の一部に触れたことは、記録に存しているし、又天保頃の作と想われる絵図に拠れば、祖母谷以下は流に沿うて道が開け、中流は平より御前谷の下手に至る路ありしものの如く、又針木谷の南沢を遡り、南沢岳より尾根を縦走して鷲羽岳に達し、黒部源流に下り、薬師沢を上りて薬師野(太郎兵衛平)を横切り、有峰を経て東笠西笠両山の間を水須に出る路程、及び平より本流に沿うて東沢に入り、之を遡りて前記の尾根筋に合する路が記入されている。この巡検は軍事上よりも寧ろ森林の監視が主要なる目的であったものと私は考えている。鐘釣温泉の湯壺に浸ったことのある人は、温泉の湧き出している洞門の岩壁が更に大きく穹窿状に拡がろうとする目の高さの処に、慶応三卯八月 山奉行辻安兵衛山廻伊藤刑部と書いた、かすかながらも残っている墨痕を見た覚えはないであろうか。此人々は恐らく最後の山廻り役であったろうと思う。私の北アルプスの旅には常に案内者であり、又冠君の黒部探検にも欠かさず案内者として、其成功に貢献する所の大きかった宇治長次郎の父は、山廻り役の人夫として同行したことがあるということを、同人からも弟の岩次郎からも聞いたのであるが、それがこの慶応の時であったかと云う事はさて措き、山行の様子などに就ても少しも知るに由なかった。
 登山者の間で最も早く黒部下廊下の探究に心を惹かれた者は、私の知っている限りでは、友人中村君であった。而し斯ういう事には後になって其権利を主張する多くの人が現われて来るものであるし、又それが正しかった場合も稀にはあるから、私は自分の知っている範囲と断って置く必要がある。勿論黒部川を横断したり或は其一部を上下した人は、以前に…

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