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三国山と苗場山
みくにやまとなえばやま |
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作品ID | 55998 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 上」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年6月15日 |
初出 | 「婦人の友」1931(昭和6)年8月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2014-06-18 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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大正二、三年の頃、東京から見える山のスケッチを作る為に、強い北西の風が吹く晴れた冬の日には、よく愛宕山の塔や浅草の凌雲閣に上って、遠い雪の山の姿に見入りながら、新しい印象や古い記憶を辿って、山の持つ個性から其何山であるかを探し出すのが楽しみであった。大井川奥の聖岳などは愛宕の塔から眺めると、三峠山と朝日山とが石老山の上で裾を交えている其たるみの間に置かれた一握の雪かと見まがうものであったが、鋭い金字形の左は急に、右は稍緩く、しかもガックリと落ち込む力強い線のうねりに、此山の隠し難い特徴が現れていた。それで聖岳と判ったのである。丁度同じ頃に凌雲閣に上って展望した時、伊香保の北に在る小野子山の上に、大きな裸虫が横たわっているとでも形容す可き真白な雪の山を見出して、其形が曾て赤城の黒檜山の頂上から眺めた越後の苗場山にそっくり似ているのに驚いた。東京から苗場山が見える! これが聖岳のように三千米以上の高峰ででもあれば兎に角、僅に二千百米を少し超えた程度で、果して東京から見えるかは頗る疑わしいので、之を確めたいと思って、山岳展望に最も邪魔である煤煙が比較的少ない赤羽台まで幾度か出懸けて行き、八倍の双眼鏡で仔細に調べて、終に苗場山に相違ないことが判明した。東京との距離は直径にして百六十粁、即ち約四十里である。聖岳はこれより三里程近い。
然し赤羽台へ行きさえすれば、いつでも此山が見られるものと早合点されては困る。展望の季節は十二月から四月、稀に五月上旬迄であるが、此山の見える日は其間に二日か三日あるに過ぎぬ。多くとも五日を超えることは無いのである。
苗場山を始めて世に紹介したのは、恐らく『北越雪譜』の著者といわれている鈴木牧之であろう。文化八年に苗場山に登って「苗場山に遊ぶの記」という文を書いた。漢文ばやりの当時に、これは珍しくも仮名交り文で、支那流に誇張などせず、平易に率直に書いてある。殊に「爰に眼を拭ひて扶桑第一の富士を視出せり、其様雪の一握を置くが如し、人々手を拍ち奇なりと呼び妙なりと称讃す」というあたりは其時の喜びの有様が目前に浮んで来る。が、しかしこれは牧之の糠喜びで、苗場山から富士の見えないことは武田君が実証されたし、又八月に富士山が真白な筈もないから、雪の一握は多分雲を見誤ったものであろうと、これも武田君の話である。ともあれ私は此文を読んで以来、復た苗場山に強い執着を感じて、再遊の念禁じ難きものがあったにも拘らず、其後其山の麓近くを通ることはあっても、登山を果す機会が得られずに幾年かが空しく過ぎてしまった。
然るに待てば海路の日和とやら、上越南線が沼田まで開通したことは、三国峠方面へ行く人に取っても、どれ丈便利になったことであろう。上野駅を一番列車で出発すれば、沼田から途中の湯宿まで自動車、それからは歩いても其日の中に三国峠下の法師温泉まで辿り着ける…