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十三夜
じゅうさんや |
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作品ID | 56040 |
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著者 | 樋口 一葉 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「にごりえ・たけくらべ」 新潮文庫、新潮社 1949(昭和24)年6月30日 |
初出 | 「文藝倶樂部・臨時増刊閨秀小説」博文館、1895(明治28)年12月10日 |
入力者 | 酔いどれ狸 |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2015-11-23 / 2015-09-01 |
長さの目安 | 約 26 ページ(500字/頁で計算) |
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上
例は威勢よき黒ぬり車の、それ門に音が止まつた娘ではないかと両親に出迎はれつる物を、今宵は辻より飛のりの車さへ帰して悄然と格子戸の外に立てば、家内には父親が相かはらずの高声、いはば私も福人の一人、いづれも柔順しい子供を持つて育てるに手は懸らず人には褒められる、分外の欲さへ渇かねばこの上に望みもなし、やれやれ有難い事と物がたられる、あの相手は定めし母様、ああ何も御存じなしにあのやうに喜んでお出遊ばす物を、どの顔さげて離縁状もらふて下されと言はれた物か、叱かられるは必定、太郎と言ふ子もある身にて置いて駆け出して来るまでには種々思案もし尽しての後なれど、今更にお老人を驚かしてこれまでの喜びを水の泡にさせまする事つらや、寧そ話さずに戻ろうか、戻れば太郎の母と言はれて何時々々までも原田の奥様、御両親に奏任の聟がある身と自慢させ、私さへ身を節倹れば時たまはお口に合ふ物お小遣ひも差あげられるに、思ふままを通して離縁とならば太郎には継母の憂き目を見せ、御両親には今までの自慢の鼻にはかに低くさせまして、人の思はく、弟の行末、ああこの身一つの心から出世の真も止めずはならず、戻らうか、戻らうか、あの鬼のやうな我良人のもとに戻らうか、あの鬼の、鬼の良人のもとへ、ゑゑ厭や厭やと身をふるはす途端、よろよろとして思はず格子にがたりと音さすれば、誰れだと大きく父親の声、道ゆく悪太郎の悪戯とまがへてなるべし。
外なるはおほほと笑ふて、お父様私で御座んすといかにも可愛き声、や、誰れだ、誰れであつたと障子を引明て、ほうお関か、何だなそんな処に立つてゐて、どうして又このおそくに出かけて来た、車もなし、女中も連れずか、やれやれま早く中へ這入れ、さあ這入れ、どうも不意に驚かされたやうでまごまごするわな、格子は閉めずとも宜い私しが閉める、ともかくも奥が好い、ずつとお月様のさす方へ、さ、蒲団へ乗れ、蒲団へ、どうも畳が汚ないので大屋に言つては置いたが職人の都合があると言ふてな、遠慮も何も入らない着物がたまらぬからそれを敷ひてくれ、やれやれどうしてこの遅くに出て来たお宅では皆お変りもなしかと例に替らずもてはやさるれば、針の席にのる様にて奥さま扱かひ情なくじつと涕を呑込で、はい誰れも時候の障りも御座りませぬ、私は申訳のない御無沙汰してをりましたが貴君もお母様も御機嫌よくいらつしやりますかと問へば、いやもう私は嚏一つせぬ位、お袋は時たま例の血の道と言ふ奴を始めるがの、それも蒲団かぶつて半日も居ればけろけろとする病だから子細はなしさと元気よく呵々と笑ふに、亥之さんが見えませぬが今晩は何処へか参りましたか、あの子も替らず勉強で御座んすかと問へば、母親はほたほたとして茶を進めながら、亥之は今しがた夜学に出て行ました、あれもお前お蔭さまでこの間は昇給させて頂いたし、課長様が可愛がつて下さるのでどれ位心丈夫であらう…