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にごりえ
にごりえ
作品ID56042
著者樋口 一葉
文字遣い新字旧仮名
底本 「にごりえ・たけくらべ」 新潮文庫、新潮社
1949(昭和24)年6月30日、2003(平成15)年1月10日116刷改版
初出「文芸倶楽部」1895(明治28)年9月号
入力者酔いどれ狸
校正者岡村和彦
公開 / 更新2014-12-05 / 2014-11-14
長さの目安約 41 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く気だらう、押かけて行つて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯なら帰りにきつとよつておくれよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら後刻に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾をまたぎながら一人言をいへば、高ちやん大分御述懐だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、力ちやんと違つて私しには技倆が無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か、何たら事だ面白くもないと肝癪まぎれに店前へ腰をかけて駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髪の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸もとばかりの白粉も栄えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、烟草すぱすぱ長烟管に立膝の無沙法さも咎める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形の裕衣に引かけ帯は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり、お高といへるは洋銀の簪で天神がへしの髷の下を掻きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻の手紙お出しかといふ、はあと気のない返事をして、どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つてゐるに、大底におしよ巻紙二尋も書いて二枚切手の大封じがお愛想で出来る物かな、そしてあの人は赤坂以来の馴染ではないか、少しやそつとの紛雑があろうとも縁切れになつてたまる物か、お前の出かた一つでどうでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら宜かろ、あんまり冥利がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして私はどうもあんな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前などはその我ままが通るから豪勢さ、この身になつては仕方がないと団扇を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。
 店は二間間口の二階作り、軒には御神燈さげて盛り塩景気よく、空壜か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処もみゆ、勝手元には七輪を煽ぐ音折々に騒がしく、女主が手づから寄せ鍋茶椀むし位はなるも道理、表にかかげし看板を見れば子細らしく御料理と…

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