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夕顔の門
ゆうがおのもん |
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作品ID | 56052 |
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著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」 講談社 1967(昭和42)年6月20日 |
初出 | 「婦人倶楽部 臨時増刊」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年6月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2014-03-01 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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十九の海騒
一
『はてな。……閉めて寝た筈だが』
と、若党の楠平は、枕から首を擡げて、耳を澄ました。
――風が出て来たらしい。
海が近いので、庭木には潮風が騒めいている。確かに、寝しなに閉めたとばかり思っていた庭木戸の扉が、時折、ばたん――ばたん――と大きな音を立てている。
楠平は、手燭を灯けた。そして揺れる灯を庇いながら、庭へ出て行ったが、主人たちの住む南側の母屋を見て、眼を恟めた。
『あっ、お市様の部屋が開いている?』
口走りながら、楠平はそこへ寄ってみた。雨戸が二尺ほど開いているし、縁の内をそっと覗くと、暗くてよく分らぬが、何か取乱れている気配がする。
『――お嬢様、お嬢様』
ふた声ほど呼んでみた。
返辞はない。
楠平はすぐ、はっと或る予感の的中を思って、体が顫いた。
明日は、家中の人、曾我部兵庫へ嫁ぐというので、きょうも一日、曠れの荷物や、何かの支度に、忙しく暮れたこの部屋だった。
『旦那様っ、旦那様っ。――お嬢様のお部屋が開いておりますが。そして、お嬢様のお声もしませぬが』
雨戸の外から、主人の寝所をたたいて彼が告げると、
『なにっ、娘が居ないと?』
田丸惣七の夫婦は、刎ね起きたらしく、遽に家の内には、狼狽する気配が聞かれた。
娘のお市の行状に就ては、田丸惣七夫妻も、薄々は一抹の気懸りを抱いていたものとみえて、
『さては、格之進めに唆かされて、明日を前に、立ち退いたものとみえる。……不! 不埓者めが!』
と、狼狽の中に、惣七の怒りの声が洩れたと思うと、軈て、
『おまえが悪いっ。女親として、知らずにおる事があるものか』
と、彼女の母親を、恐しい声で叱りとばした。
――わっと、泣き伏す声がした。お市の母が悔い泣くのである。
その泣き声を、惣七は又叱りながら、
『ば、ばかめ! 泣いていて済む場合か。遺書を見い、上方へ行くとある。わし達が寝む迄は、何の気振も見えず、この部屋の灯影に姿が見えた彼奴だ。――差しずめ、一刻も早く、手配をするのが肝要じゃ。まず斎地どのへ報らせに行け。岡村へも、野坂へも。――早く、早く』
二
――まだそう遠く迄は走っていまい。
それに夜半は、浜から出る船はない筈だから、足どりも、山越えを指して行ったに違いない。
楠平は、自分の若党部屋へもどって、慌しく身支度をする間に、そう考えた。
『旦那様。ひと足先に、てまえが追いついて、お嬢様を抑えて置きますから、お後からすぐ』
出がけに、外から云うと、惣七は、窓から顔を見せて、
『楠平か、楠平か』
『はい。はい』
『よく気がついた。早く行ってくれ。――浜ではないぞ。道どりは山の方らしい』
『てまえも、そう考えます』
『わし等も、手配をして、すぐ後から行く程にな――』
楠平はもう外へ駈け出していた。主人のおろおろした声が耳に残って、いつまでも…