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山浦清麿
やまうらきよまろ |
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作品ID | 56053 |
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著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」 講談社 1967(昭和42)年6月20日 |
初出 | 「講談倶楽部 臨時増刊」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年9月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2014-03-01 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 95 ページ(500字/頁で計算) |
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小諸の兄弟
一
『のぶ。――刀箪笥を見てくれい』
袴の紐を締め終って、懐紙、印籠などを身に着けながら、柘植嘉兵衛は、次の間へ立つ妻の背へ云った。
『――下の抽斗じゃ。この正月、山浦真雄が鍛ち上げて来た一腰があるじゃろう。二尺六寸ほどな物で、新しい木綿に巻き、まだ白鞘の儘で』
『ございました。この刀ではございませんか』
『それそれ』
と、嘉兵衛は手に持つと、座敷の中ほどに、悠ったり坐り直した。
今朝――
この信州松代の城下、長国寺の境内で、藩のお抱え鍛冶、荘司直胤が主催で、大がかりな刀の「試し」がある。
それはもう、明け方から始まっている筈とあって、気短かな嘉兵衛は、
(はやくせい。はやくはやく)
と、食事も急き立てるので、彼の妻は、良人を送り出すのに、うろうろして急いだ程だった。
で、もう玄関には、草履を揃えて、供の仲間も先刻から待っているというのに、嘉兵衛は、白鞘の一腰を払うと、
『のぶ、打粉を出せ』
と落着き直して、悠々と又、刀の拭いをし始めた。
ゆうべも、独りで取出して夜更けまで、眺め入っていた刀である。
よほど、気に入っているらしかった。
『うむ。……いいところがある。直胤の鍛刀などよりは、無名のこの作者のほうが、遙かに、魂がはいっておる』
呟いて、木綿袋へ巻き直し、
『では、行って来るぞ』
と、膝を起てかけた時である。
折も折、客とみえて、玄関に控えていた仲間が、そこから告げた。
『御新造さま。山浦の御舎弟がお見えでござりますが』
声を聞いて、嘉兵衛が直かに、奥で云った。
『なに、真雄の弟が見えたと。……むむ、大石村へ養子に行ったとか聞いていたが、あの環と申す次男であろう。いい所へ来た。ちょっと上げろ』
二
山浦環は、又の名を内蔵助とも称った。まだ二十歳ぐらいで、固く畏まって坐った。黒い眸には、どこかに稚気と羞恥みを持っていた。
藩士ではない。小諸に近い山里の郷士の子である。だから城下へ出て来る時など、殊に身を質素にしていた。粗末な木綿の着物に木綿の袴――どこと云って派手気のない田舎びた青年だった。けれど、それで居て、肩の薄い肉づきだの、整った目鼻だちだの、天性の端麗が、どこやらに潜んでいた。
『……そうか、御年貢の事で、お蔵役所まで参ったのか。よく寄ってくれた』
『序と申しては、恐れ入りますが、以来、御無沙汰いたしております。常々兄の真雄が又、一方ならぬ御庇護に預かっております由で』
『いや、そちの兄も、ぐんぐん腕が上って来てな。後援てしておるわしも、世話効いがあるというものよ。――時に、そちはもう、近頃では、刀も鍛つまいな』
『はい、養家先では、刀を鍛つなどという暇はおろか、刀を観るまもございません。庄屋の雑務やら養蚕やらで』
『百姓もいい。そちのような者が、庄屋の跡目を継いで励めば、あの辺の村々もず…