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剣の四君子
けんのよんくんし |
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作品ID | 56057 |
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副題 | 03 林崎甚助 03 はやしざきじんすけ |
著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「剣の四君子・日本名婦伝」 吉川英治文庫、講談社 1977(昭和52)年4月1日 |
初出 | 「講談倶楽部 一月号」大日本雄弁会講談社、1940(昭和15)年1月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2014-10-03 / 2014-09-15 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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一
母のすがたを見ると、甚助の眼はひとりでに熱くなった。
世の中でいちばん不倖せな人が、母の姿であるように見られた。
「どうしたら母は楽しむだろうか」
物心のつき初めた頃から、甚助はそんな考えを幼心にも持った。
ふと、何かの弾みに、その淋しい母が、笑うかのような歯を唇にこぼすと、
「母上がお笑いになった」
と、その日は一日、彼も楽しく遊ぶことができた。
十二、三歳になると、そんな考えがもっと深くなって、
「なぜだろ?」
と、思うようになった。
自分が何をした時に、母の顔が欣しそうになるか、に気がつきだした。
「書が好く読めた時と、長柄の刀で、樹がよく斬れた時だ」
少年林崎甚助は、それからよけい声を張って良く書を読み、外へ出ては、身丈に過ぎた長巻刀を把って、丈余の樹の梢を、跳び斬りに斬って落した。
古い土塀門の外に佇って、母は時折、微笑んでくれた。
その母は、またなく美しい人だった。年もまだ若かった。名は楡葉といった。
楡葉は若後家であった。祖先からの土豪造りの家は、羽前の大川最上の流れに沿い、甑嶽の麓にあった。山形から十里余、楯岡の砦から北へ一里、土称林崎という部落にあった。
この地方一帯は、足利家の管領斯波氏のわかれ最上一族の勢力圏内であった。甚助の父も、最上家の臣だった。
上杉謙信の越後本庄から最上川を溯れば、最上領東根の砦町、また、黒伏嶽や高倉の山道を越えれば、一路伊達家の仙台に通じる。武強の隣藩と境を接して、連年、ここにも戦乱は絶えなかった。
甚助は信じていた。
「わしの父者人は、戦で死んだのだ」
それは、父なき少年の、せめてもの誇りでもあった。
ところが或る時、楯岡の砦町から部落へ来た馬商人の曳いて来た馬へ、甚助が他の少年たちと共に、悪戯すると、その中の一人の馬商人が、拳を振上げて、逃げおくれた甚助のうしろからこう呶鳴った。
「この童めッ。そげな悪性な真似しさらすと、汝れが父者のように、汝れも今に、闇討ち食ってくたばりさらすぞ」
その声は、甚助の耳より魂をつき破った。甚助は、色あおざめて逃げて来た。それからもう他の子と遊ばなくなった。
二
長柄という武器は、戦時の用具である。平時の刀では短きに過ぎるので、いざという場合、常の刀へ、常用の柄より寸法の長い特殊な柄をすげ替えて、これを引っ提げ持ちにして、戦場へ働きに出るのである。
別名、長巻とも称んでいる。
その寸法は、およそ三尺の刀身へ、二尺二、三寸の柄をつける。三尺以上の刀になれば、それに三尺もある長柄をすげる場合もある。
林崎甚助は、天文十六年の生れで、その年少十四、五歳の頃は、ちょうど永禄年間に当り、戦国の英雄が諸州に覇を興した頃であったから、長柄の流行は、旺を極めて、戦場ばかりでなく、平時でも引っ提げて歩く者があった。
織田信長は、その頃、自…