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夏虫行燈
なつむしあんどん
作品ID56061
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」 講談社
1967(昭和42)年6月20日
初出「婦人倶楽部 別冊付録」大日本雄弁会講談社、1938(昭和13)年8月
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2014-03-07 / 2014-09-16
長さの目安約 38 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

風入れ異変





 迅い雲脚である。裾野の方から墨を流すように拡がって、見る間に、盆地の町――甲府の空を蔽ってしまう。
 遽かに、日蝕のように晦かった。
 板簾の裾は、大きく風に揚げられて、廂をたたき、庭の樹々は皆、白い葉裏を翻して戦ぎ立つ――
『おう。雷鳴か』
 昼寝をしていた高安平四郎は、顔に乗せていた書籍を落して、むくりと寝転ると、
『……襲るかな? 一暴れ』
 頬杖ついて、廂越しに、暫く雲行でも観測しているように、呟いた。
 ――と。その睫毛の先を、白い電光りが、チカッと掠めて、霹靂はすぐ屋の上を翔け廻った。
『お、大きいぞ。――これやあ、出向かずばなるまい』
 平四郎は、刎ね起きて、すぐ身支度した。
 甲府城の森や天主には、過去に幾度も落雷の歴史がある。その都度、火災を起しては、苦い経験を重ねているので、大きな雷鳴の伴う風雨には、たとえ非番の者でも、即刻、お城へ馳けつけるという掟になっている。
 もっともそれは、俗に『番衆番衆』と称ばれる軽輩の番士役に限ってはいたが。
 平四郎は、その組役の一人で、番衆長屋に住む気軽な独り者、然し、年齢はわりあいに取っていて、もう三十は超えていた。
『おい、婆や、お城へ行って参るぞ』
 庭へ呶鳴って――
『五刻を過ぎたら、お城へ泊ったと思ってよい。戸締りして、早く寝めよ』
 と、云いたした。
 紫陽花や八ツ手が、海のように揺れている裏庭の方で、
『はい。はい』
 婆やの返辞がしたが、ふと、縁先に取り込んである、一抱え程な干衣を見ると、中に、艶やかな女着物が一枚、紛れこんでいた。
『はて、こんな物は、家には無い筈だが――。婆や、婆や、何処から取り込んで来たのだ』
 云っているうちに、婆やは又、次の一抱えを、持って来て、縁先へ置いた。
 その中にも、羅衣の女小袖だの、扱帯だのがあった。
『――旦那様。それは多分、上のお屋敷からでございましょう。きのうも今日も、虫干をして居らっしゃいましたから、風に舞って、お庭の中へ、吹き落ちて来たに違いございません』
『ウム、萩井家のか』
 平四郎は、その衣裳を手に持って、下り藤の刺繍紋を見ながら呟いた。
 婆やも、眼をみはって、
『たいそうお金に飽かせた衣裳でございまするの。京染の裾模様――』
『婚礼着だな』
『きっと、お小夜様の……』
『こんなもの!』
 平四郎は、それを、ふわーっと庭先へ抛り投げて、婆やへ云った。
『風に舞って来たとはいえ、これ見よがしな贅沢衣裳、取り込んで置くには及ばん。崖の下から呶鳴って、萩井家の者に、取りに来いと云え』
 庭へ捨てられた裾模様へ、もう白い雨の線が、斜めに降りかけていた。
 その間にも、雷鳴は、絶え間なく鳴りはためいて――



 甲府の御番城は、平城だった。
 城主はない。
 幕府から支配役をいいつかって、御城番として松野豊後守、加役…

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