えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
魚紋
ぎょもん |
|
作品ID | 56066 |
---|---|
著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」 講談社 1967(昭和42)年6月20日 |
初出 | 「冨士 臨時増刊号」1936(昭和11)年4月 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2013-11-23 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 31 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
お部屋様くずれ
一
今夜も又、この顔合せでは、例によって、夜明かしとなること間違い無しである。
更けても、火鉢に炭をつぐ世話もいらない程の陽気だし、桜花も今夜あたりでおしまいだろう、櫺子の外には、まだ戸を閉てない頃から、春雨の音がしとしとと降りつづいていた。
パチ…… パチリ
榧の柾目の盤が三面、行儀よく並んでいた。床の間へ寄った一面は空いていて、紫ちりめんの座ぶとんだけがある。那智石の白へ手を突っ込んで、
『さアて。……』
弱った顔つきを、近視のように盤へ近づけてうなっているのは、ついこの近所の山岡屋という、質屋の番頭。
質屋というと、堅気の中でもかちかちの吝嗇屋らしく聞えるが、専ら商売になってゆくのは、盗品買だといううわさのある質屋なのである。で、そこの番頭という才助の眼もどこか鋭かった。けれど、男ぶりはちょっと好くて、年頃も、ここへ集まる中では一番若い二十四か五ぐらい。
パチ?
『なる程。妙手もあるものだの』
相手は医者の玄庵だった。
外科では上手と云われているが、脂ぎった五十男で、仁術という職業には余りに体力的な人物だった。道楽が多いらしいのである。いつも高利を借りて苦しんでいる。第一病家を廻っている時間よりも、この碁会所にいるほうが遙かに多いという医者様だった。
二
『済まないが、今度はもらったぜ』
一局、勝敗がついたとみえ、盤の下にかくしてある賭金を、攫うように懐中へしまいこんで、
『――何うだな、其っ方の風雲は』
云いながら、隣りの対局へ、横から顔をつき出したのは、横[#挿絵]に黒い刀傷のある村安伝九郎である。
これは御家人と自称している男で、三十がらみの苦みばしった骨柄であった。背が高く、手脚が長くそして、痩せているので、岡場所などを通ると売女たちが、
(蟷螂さん――)
と綽名して呼ぶ。
その蟷螂さんと対局して、今、賭けておいた幾らかの金を取られ、悄ぼりと、もう石を崩した盤を、いつ迄、未練げに眺めていたのは、浮世絵師の喜多川春作だった。
気が弱くて、闘志がなく、おまけに碁はカラ下手と来ている春作は、よせばいいのに、毎晩ここへ来なければ寝られないと云っている、来れば又、必ず鴨なのだ。
(何の因果か)
と、自分でもこぼして居ながら、今夜もいつ迄、帰ろうとはしない。
もう更けているので、よく流行るこの碁会所も、帰る者は帰ってしまったのであろう、座敷に居て、夜も知らないのは、こう四名だった。
後は――この碁会所の主が一人。
今し方、夜食の鮓が台所へ入ったから、茶を入れる支度をしているのであろう、茶の間のほうで瀬戸物の音がしている。
『かまきりさん』
そこから声がして、
『もう、お鮓を出してもよござんすか』
伝九郎は舌打ちして、
『よしてくれ、かまきりなんて呼ぶなあ。――悪党じゃあるめえし』
『ホホ…