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梅里先生行状記
ばいりせんせいぎょうじょうき
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「梅里先生行状記」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年10月11日
初出「朝日新聞」1941(昭和16)年2月18日~8月24日
入力者川山隆
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2019-08-11 / 2019-07-30
長さの目安約 430 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

恋すちょう……




 二月の風は水洟をそそる。この地方はまだ春も浅い。ひろい畑は吹きさらしている。
 昼まになっても、日かげの霜ばしらは、棘々とたったままだし、遠山のひだには、まだある雪が薙刀のように光っていた。
「麦踏め、麦踏め。――芽をふめ、芽をふめ、芽をふめ」
 畑のなかで独り言が聞える。寒さと風に対抗しながら、それはだんだん大声となった。麦畑で、麦を踏んでいる老人の唇からである。
 むこうの方でも、ふたり程、鍬をもって麦の畝をすいていた。
「老公か。……あのお声は」
 ひとりがひとりへふり向くと、鍬の手をやすめ合って、
「はははは。そうらしいな。寒さを克服なさるため、足拍子にあわせて、書物のうちのお好きな辞句でも、吟誦していらっしゃるのであろう」
「いや。……」と、ひとりは耳たぶへ手をあてがいながら、
「麦ふめ麦ふめ。芽をふめ芽をふめ。と聞えるが」
 するとすぐそれは聞えなくなって、彼方にいる老百姓が、麦踏みをやめてしまい、こっちを見ているふうである。胸にまでかかりそうな白い髯が、風のなかに著しく光って見える。
「おううい」
 やがて聞えてくる声に、ふたりはあわてて鍬の柄を持ちかえ、
「あ。呼んでいらっしゃる」
 何はさておきと、駈けだして行った。
「お召でしたか」
 ひざまずいた膝のつきよう、横においた鍬のおきよう、ただの農夫ではあり得ない。
 主従ともに野良着はつけているが、老百姓のほうなど、なおさらそれに見えなかった。寒かぜに赤くひき緊っている顔は、どこか大人の相をそなえ、大きくて高い鼻ばしらから顎にかけての白髯も雪の眉も、為によけい美しくさえあった。
「林助、悦之進」
「はいっ」
「あさっては、月並の汁講の日になるの」
「左様でございます」
「今月はわしが宅をする当番であったな。みな集まって参ろうな」
「みな楽しみにしております」
「皿、杯などの数が足るまい」
「どういうご趣向にあそばしますか、お小納戸の剣持与平なども、お支度に気をもんでおりましたが」
「趣向など無用。へだてなく語りおうて、ただ一夜をたのしむのが汁講の交わりじゃ。汁には到来の猪があり、菜根にはわしが手づくりの大根、ごぼうもある。……だが、菓子は城下の浙江饅頭を用いたいな。舜水先生のお好きなものであった。先生の故国、明の浙江のそれと風味が似ておるとか。先生逝いてもう十年、お偲びする話題ともなろう」
「ではさっそくお城下の葛屋から取りよせておかせましょう」
「いやいや、自身で求めに出向こう。ここ久しく、城下にも出ぬ。ほかに用事もあるし、そちたちも供するがよい」
 老公はもう歩き出している。畑は西山荘の前なので、百歩にして、そこの門までもどれる。
 門といってもかたちばかりのもので、住居の屋根は茅ぶき、柱の多くは皮つきの杉丸太、竹の縁、粗土の壁、庄屋の家ほどもなかった。
「こ…

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