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天保の飛行術
てんぽうのひこうじゅつ |
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作品ID | 56098 |
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著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「野村胡堂伝奇幻想小説集成」 作品社 2009(平成21)年6月30日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 阿部哲也 |
公開 / 更新 | 2015-08-22 / 2015-07-19 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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前書き――百年前の飛行機
百年前、日本には既に空飛ぶ機械が発明されて居たのでした。惜しいことにそれが後年の飛行機にまで発達する機会に恵まれず、無智と野心と邪悪な心とに亡ぼされて、たった一篇の随筆と、哀れ深い物語を遺しただけで亡びてしまったのです。併し、その先覚者の逞ましい意図と、血みどろの研究が、今日世界の空を征服せんとする、航空界の驚異的な発達の一つのささやかな捨石でなかったと誰が保証するものでしょう。
安政四年出版した碩学菅茶山の随筆「筆のすさび」に左の小さい物語が採録されて居ります。
一、機巧、備前国岡山表具師幸吉というもの、一鳩をとらえて其身の軽重羽翼の長短を計り、我身の重さをかけ比べて自ら羽翼を製し、機を設けて胸前にて操り搏飛行す、地より[#挿絵]ることあたわず、屋上より羽搏ちて出ず。ある夜郊外をかけり廻りて、一所野宴するを下し視て、もし知れる人にやと近よりて見んとするに、地に近づけば風力弱くなりて思わず落たりければ、その男女おどろきさけびて遁はしりける、あとには酒肴さわに残りおれるを幸吉あくまで飲くいして(中略)――後にこの事あらわれ市尹の庁によび出され、人のせぬ事をするはなぐさみといえども、一つの罪なりとて両翼をとりあげ、その住る巷を追放せられて、他の巷にうつしかえられる。(以下略)
この事があってから三十年、天保初年頃には表具師幸吉加賀の白山に籠り、益々飛行機の研究を積んで、鼓翼飛行から滑翔飛行機にまで発見を進めて居たのです。
半面美人
「ひと休みしたお蔭で、すっかり元気になったよ、豆ねじに渋茶も、時に取っては何よりの御馳走だ、陽の高いうちに、少しでもお山の近くへ行くとしようか」
三十二三の旅人は、振り別けの荷物を肩に、陽ざしを眺め乍ら腰をあげました。
江戸の商人という拵えで、陽に焦けた浅黒い顔、キリリとした眼鼻立ち、身体にも足拵えにも五分の隙もありませんが、莞爾するととんだ愛嬌のある顔で、苦味走ったうちに、どっか憎めない男振りです。
時は天保二年秋の初め、まだ山々の紅葉も淡く、加州鶴来町から、手取川の本流に沿うて、霊峰白山に登る道は、白々と緑の中に隠見するのでした。
「お客様は何処へ行きなさるだよ」
茶店の女房は茶代の鳥目を読み乍ら、珍しく気前の良い客に問いかけました。
「心願の筋があって御前岳の白山神社に御詣りする積りだが――」
旅人はもう一度縁台に腰をおろしました。茶店の女房の顔には、なんか知ら由々しいものがあったのです。
「白山様へ登るのだけはお止しなさいよ、悪いことは言わないだ」
「それはまた何故だえ、お神さん」
旅人の不敵な顔にも、ほのかな疑惑が動きます。
「お客様は江戸の方で、御存じないかも知れないが、白山はこの二十年越しいろいろ怪しいことがって、お留山になって居りますだよ」
「はてね」
「金沢の山役人…