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河鹿
かじか
作品ID56161
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「怪奇探偵小説傑作選1 岡本綺堂集 青蛙堂奇談」 ちくま文庫、筑摩書房
2001(平成13)年2月7日第1刷
初出「婦人公論」1921(大正10)年7月号
入力者江村秀之
校正者持田和踏
公開 / 更新2022-10-15 / 2022-09-26
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 C君は語る。
 これは五六年前に箱根へ遊びに行ったときに、湯の宿の一室で同行のS君から聞かされた話で、しょせんは受売りであるから、そのつもりで聞いて下さい。

 つい眼のさきに湧きあがる薄い山霧をながめながら、わたしはS君と午後の茶をすすっていた。石にむせんで流れ落ちて行く水の音もきょうは幾らかゆるやかで、心しずかに河鹿の声を聞くことの出来るのも嬉しかった。
「閑静だね。」と、わたしはいった。
「うむ。こうなると、閑静を通り越して少し幽寂を感じるくらいだよ。箱根の中でもここらは交通が不便で、自動車の横着けなどという、洒落れた芸当が出来ないから、成金先生などは滅多に寄付く気づかいがない。われわれの読書静養には持って来いというところだよ。実際、あの石高路をここの谷底まで降りてくるのは少々難儀だけれど、僕は好んでここへくる。来てみると、いつでも静かなおちついた気分にひたることが出来るからね。」
 S君は毎年一度は欠かさずにここへ来るだけあって、しきりにこの箱根の谷底の湯を讃美していた。霧はだんだんに深くなって、前の山の濃い青葉もいつか薄黒い幕のかげに隠れてしまった。なんだか薄ら寒くなって来たので、わたしは起って二階の縁側の硝子戸を閉めた。
「戸を閉めても河鹿の声は聞こえるだろう。」
「そりゃ聞こえるさ。」と、S君は笑いながら答えた。「柄にもない、君はしきりに河鹿を気にしているね。一夜作りの風流人はそれだからうるさい。だが、僕もあの河鹿の声を聞くと、なんだかいやに寂しい心持になることがある。いや、単に風流とか何とかいうのじゃない、ほかに少し理由があるんだが……。」
「河鹿がどうしたんだ。何かその河鹿に就いて一種の思い出があるとかいうわけなんだね。」
「まあ、そうだ。実はその河鹿が直接にどうしたという訳でもないんだがね。僕がやっぱりここの宿へ来て、河鹿の声を聞いた晩に起った出来事なんだ。僕は箱根の中でもここが一番好きだから、もうこれで八年ほどつづけて来ている。大抵は七八月の夏場か十月十一月の紅葉の頃だが、五年前にたった一度、六月の梅雨頃にここへ来たことがある。いつでもこの頃は閑な時季だが、とりわけてその年は、どこの宿屋も閑散だとかいうことで、僕の泊っていたこの宿も滞在客は僕ひとりという訳さ。お寂しうございましょうなどと宿の者はいっていたが僕はむしろ寂しいのを愛する方だから、ちっとも驚ろかない。奥二階の八畳の座敷に陣取って、雨に烟る青葉を毎日ながめながら、のんびりした気持で河鹿の声を聞いたのさ。いや、実をいうと、僕はそれまで河鹿の声などというものに対して特別の注意を払っていなかった。毎日聞いていれば、別にめずらしくもないからね。ところが、僕よりも一週間ほどおくれて、三人づれの女客がここの宿へ入込んで来た。ほかに滞在客は無し、女ばかりでは寂しいというのでわざわざ僕の隣を…

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