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吾妻橋
あづまばし
作品ID56168
著者永井 荷風 / 永井 壮吉
文字遣い新字旧仮名
底本 「荷風全集 第二十巻」 岩波書店
1994(平成6)年10月28日
初出「中央公論 第六十九年第三号」中央公論社、1954(昭和29)年3月1日
入力者H.YAM
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2020-12-03 / 2020-11-27
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 毎夜吾妻橋の橋だもとに佇立み、徃来の人の袖を引いて遊びを勧める闇の女は、梅雨もあけて、あたりがいよ/\夏らしくなるにつれて、次第に多くなり、今ではどうやら十人近くにもなつてゐるらしい。女達は毎夜のことなので、互にその名もその年齢もその住む処も知り合つてゐる。
 一同から道ちやんとか道子さんとか呼ばれてゐる円顔の目のぱつちりした中肉中丈の女がある。去年の夏頃から此の稼場に姿を見せ初め、川風の身に浸む秋も早く過ぎ、手袋した手先も凍るやうな冬になつても毎夜休まずに出て来るので、今では女供の中でも一番古顔になつてゐる。
 いつも黒い地色のスカートに、襟のあたりに少しばかりレースの飾をつけた白いシヤツ。口紅だけは少し濃くしてゐるが、白粉はつけてゐるのか居ないのか分らぬほどの薄化粧なので、公園の映画を見に来る堅気の若い女達よりも、却つてジミなくらい。橋の欄干のさして明からぬ火影には近くの商店に働いてゐる女でなければ、真面目な女事務員としか見えないくらい、巧にその身の上を隠してゐる。そのため年齢も二十二三には見られるので、真の年はそれより二ツ三ツは取つてゐるかも知れない。
 道子は橋の欄干に身をよせると共に、真暗な公園の後に聳えてゐる松屋の建物の屋根や窓を色取る燈火を見上げる眼を、すぐ様橋の下の桟橋から河面の方へ移した。河面は対岸の空に輝く朝日ビールの広告の灯と、東武電車の鉄橋の上を絶えず徃復する電車の燈影に照され、貸ボートを漕ぐ若い男女の姿のみならず、流れて行く芥の中に西瓜の皮や古下駄の浮いてゐるのまでがよく見分けられる。
 折から貸ボート屋の桟橋には舷に数知れず提燈を下げた凉船が間もなく纜を解いて出やうとするところらしく、客を呼込む女の声が一層甲高に、「毎度御乗船ありがたう御在ます。水上バスへ御乗りのお客さまはお急ぎ下さいませ。水上バスは言問から柳橋、両国橋、浜町河岸を一周して時間は一時間、料金は御一人五十円で御在ます。」と呼びつゞけてゐる。橋の上は河の上の此の賑ひを見る人達で仲見世や映画街にも劣らぬ混雑。欄干にもたれてゐる人達は互に肩を摺れ合すばかり。人と人との間に少しでも隙間が出来ると見ると歩いてゐるものがすぐ其跡に割込んで河水の流れと、それに映る灯影を眺めるのである。
 道子は自分の身近に突然白ヅボンにワイシヤツを着た男が割込んで来たのに、一寸身を片寄せる途端、何とつかずその顔を見ると、もう二三年前の事であるが、パレスといふ小岩の遊び場に身を沈めてゐた頃、折々泊りに来た客なので、調子もおのづから心やすく、
「アラ、木嶋さんぢやない。わたしよ。もう忘れちやつた。」
 男は不意をくらつて驚いたやうに女の顔を見たまゝ何とも言はない。
「パレスの十三号よ。道子よ。」
「知つてゐるよ。」
「遊んでツてよ。」と周囲の人込を憚り、道子は男の腕をシヤツの袖と一しよに引張…

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