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人妻
ひとづま
作品ID56169
著者永井 荷風 / 永井 壮吉
文字遣い新字旧仮名
底本 「荷風全集 第十九巻」 岩波書店
1994(平成6)年11月28日
初出「中央公論 文芸特集第一号」中央公論社、1949(昭和24)年10月1日
入力者H.YAM
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2021-01-02 / 2020-12-27
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 住宅難の時節がら、桑田は出来ないことだとは知つてゐながら、引越す先があつたなら、現在借りてゐる二階を引払ひたいと思つて見たり、また忽気が変つて、たとへ今直ぐ出て行つて貰ひたいと言はれやうが、思のとゞくまではどうして動くものか、といふやうな気になつたりして、いづれとも決心がつかず、唯おちつかない心持で其日其日を送つてゐた。それも思返すと半年あまりになるのである。
 二階を借りてゐる其家は小岩の町はづれで、省線の駅からは歩いて二十分ほど、江戸川の方へ寄つた田圃道。いづれも生垣を結ひ囲した同じやうな借家の中の一軒である。夏は蚊が多く冬は北風の吹き通す寒いところだといふ話であるが、桑田が他へ引越したいと思つてゐる理由は土地や気候などの為ではなかつた。家の主人と細君との家庭生活が、どこにも見られまいと思はれるばかり、程度以上に、また意想外に、親密で濃厚すぎるやうに思はれるのが、桑田にはわけもなく或時にはいやに羨しく見え、或時には馬鹿々々しく、結局それがために、今まではさほど気にもしてゐなかつた独身の不便と寂しさとが、どうやら我慢しきれないやうに思はれ出した。その為であつた。
 桑田は一昨年の秋休戦と共に学校を出て、四ツ木町の土地建物会社に雇はれ、金町のアパートに居たのであるが、突然其筋からの命令で、同宿の人達一同と共に立退かねばならぬ事になり、引越先がないので途法にくれてゐたが、偶然或人の紹介で現在の二階へ引移つたのである。
 年はまだ三十にはならないので、当分は学生の時と同様、独身生活をつゞけて行くつもりでゐたのだが、小岩の家の二階へ引越してから、とてもそんな悠長な、おちついた心持ではゐられなくなつたのである。
 家の主人は桑田よりは五ツ六ツ年上で、市川の町の或信用組合へ通勤してゐる。身長は人並で、低い方ではないが、洋服を着た時の身体つきを見ると、胴がいやに長い割に足の短いのと、両肩のいかつたのが目に立ち、色の黒い縮毛の角ばつた顔が、口の大きいのと出張つた頬骨のために、一層猛々しく意地悪さうに見えるが、然しその子供らしい小さなしよんぼりした眼と、愛嬌のある口元とが、どうやら程よく其表情を柔げてゐる。
 細君は年子といつて三年前に結婚したといふはなし。もう二十五六にはなつてゐるらしい。まだ子供がないせいか、赤い毛糸のスヱータに男ヅボンをはいたりする時、一際目に立つ豊満な肉付と、すこし雀斑のある色の白いくゝり頤の円顔には、いまだに新妻らしい艶しさが、たつぷり其儘に残されてゐる。
 良人はどつちかと云ふと無口で無愛想な方らしいが、細君はそれとは違つて、黙つてぢつとしては居られない陽気な性らしく、勝手口へ物を売りにくる行商人や、電燈のメートルを調べに来る人達とも、飽きずにいつまでも甲高な声で話をしつゞけてゐる。
 桑田が初め紹介状を持つて尋ねて行つた時、また運送屋に夜具蒲…

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