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百まで踊る下中翁
ひゃくまでおどるしもなかおう
作品ID56190
著者平野 零児
文字遣い新字新仮名
底本 「平野零児随想集 らいちゃん」 平野零児遺稿刊行会
1962(昭和37)年11月1日
入力者坂本真一
校正者持田和踏
公開 / 更新2024-08-26 / 2024-08-27
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 下中翁が忽然と逝かれたのは何とも傷心の限りである。亡くなられる恰度一月前、麹町の「山の茶屋」で、翁の御馳走になったばかりである。中野好夫、深尾須磨子、松山幸逸、岡田政一、大西雅雄さん達、下中翁を囲む同郷の極く小部分のグループの、いはば[#「いはば」はママ]恒例のような会だった。その前はクラブ関東で、立抗村の名誉村長になられた時の、披露ともいうべき会だった。その時は「これからは陶工弥三郎となって余生を送る」といわれていた。
 私はその時羨ましく思った。私には東洋的な、年をとったら、静かに読書したり、絵や字をかいたりして、陶淵明的な隠とん生活をして、呑気に暮したいという気持が強いからである。しかし私にはそんな余裕がない。いくら年をとっても、死ぬまで売文で生きて行くより手がないからである。
 しかしその時窃かに私は思った。「このお爺いさん、果して陶工弥三郎で納まれるかな」と思った。
 果して亡くなるその夜の二時間前まで、クラブ関東で、「世界平和」の会を主催して、その席で諸名士を前に、平和促進の言葉を述べられた。そしてケネデイ米新大統領に出された、世界平和に対する要望書に対する、大統領の賛意を表した返信を恰も、その日に受取られたということである。全く、雀百まで踊り忘れぬ翁だった。果して陶工弥三郎なんぞで納まれる人ではなかったのだ。
 同郷の先輩として、私は一体いつ頃から、翁に接近したのかハッキリ記憶がないが、多分、円本の大衆文学全集を出された頃から、故直木三十五、三上於菟吉、翁の死まもなく、これまた故人となった村松梢風などを通じて知り、郷友としては岡田政一、松山幸逸君等を通じて近しくして頂いたと思う。
 時々前記の小グループが、集って会食するようになったのは、世は非常時の、何となく険わしい時代で、二、二六事件の前頃(昭和十一年)九段下の円六という料理屋で、おかみか、女中が義太夫を弾き語りしたりする、少壮軍人達がよく行く家だった。それが最初の会であったと思う。その後諸所で集まったが、いつも会費ということになっていても、結局翁の御馳走になってしまった。
 その頃のこと、何処かで集って、例によっていろんな雑談が始まった時、翁は当時の時局に対する意見を、屡々故近衛文麿に与え、「ゆうべも、電話でいってやった」といわれた。下中翁はその昔は、社会大衆党にも関係があったようだし、今日の日教組の母体ともいうべき啓明会の創立者であったり、日本最初のメーデーの発起者であったり、政治活動もされた新興分子であったが、それは職業的政治家としての野心からでなく、主として教育家としての立場からであったと思う。近衛公とは、そんなことから親交があったらしく、その後は軍部主脳や革新的青年将校とも接近されていた。
 非常時となって、一種の革新的ムードが起ると、その中心圏に入って、「活動された」ので近衛に…

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