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無情な今年の二月
むじょうなことしのにがつ
作品ID56192
副題村松梢風氏と下中弥三郎氏をいたむ
むらまつしょうふうしとしもなかやさぶろうしをいたむ
著者平野 零児
文字遣い新字新仮名
底本 「平野零児随想集 らいちゃん」 平野零児遺稿刊行会
1962(昭和37)年11月1日
入力者坂本真一
校正者持田和踏
公開 / 更新2023-09-21 / 2023-09-14
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 二月という月は、私にとって生れ月で、元来ならばまず目出たい月というのだが、今年の二月は相次いで、私の最も親しい人々が数人もあの世へ行ったので、厄月になってしまった。
 そのうちでも、村松梢風氏と下中弥三郎翁の死は、わけても傷心なことであった。
 梢風さんとは四十年近い交遊であった。知り合ったのは、私がまだ東京に遊学していた大正初年のころで、故馬場孤蝶先生の市ヶ谷田町の書斎であった。
 馬場先生は当時文壇随一の座談の妙手といわれ、語学に堪能で、西欧の文学を広く漁り、該博な知識を持ち、慶応大学で大陸文学を講じていたが、学生以外にも多くの文人が、その書斎に集まった。夏目漱石の書斎に集まった木曜会とならび称されていた。
 すでに名をなしている文学者の中にまじって、私は先生の書斎のすみで、先輩達が先生を中心に語り合うのを聞いているだけだったが、梢風さんもその中で、先生に劣らぬ座談に長じて、ことに清水次郎長の話は、講談を聞くよりもおもしろかった。
 梢風さんと最も親しくなったのは、梢風さんが、死に別れた愛人を見送った後、間もなく京都で結ばれた現在の愛人と、愛の巣を求めていた昭和六年ごろ、私が住んでいた日暮里の同潤会の鶯谷アパートに誘い入れ、近所つき合いをしたことから深まった。その後梢風さんが青山高樹町に移ると、私もその近くの麻布笄町の家に住み、毎日のように往来した。早くから中国に興味を持ち、ほとんど中国大陸に足跡をくまなくしていた梢風さんは、私も済南事変に山東へ従軍記者となって、大陸に魅了され、満州事変が起きると、中国へ渡ってそれを見て来たい念願を起こすと、直ぐに中央公論社に連れて行き、故嶋中社長を説いて、中央公論特派員の名義を与えさせ、満州へ従軍の便宜をはかってくれた。
 太平洋戦争が苛烈になり私は南方従軍から帰り、内地の不自由さがいやになり、北支へ疎開しようと決意した時は、それをよろこんだが、
「もう、これでお互いに生きてあえぬかも知れませんね」といって、そのころは酒の飲めない梢風さんは、酒好きの私のためにいろいろと手をまわして、諸所からとぼした配給の酒を一合あてかき集めて、私のために送別の宴を設けてくれたりした。米のB29が、秋空に飛行雲を残して帝都の空を偵察して去ったころであった。
 以来十四年間、私は山西省の奥に敗戦を迎え、やがて中共のために戦犯として六年間収容所に拘禁された。
「やはり、梢風さんとも、もうあえないか」とあきらめていたら、昭和三十一年の春、梢風さんは、平和擁護委員会の代表として招かれ、ソ連へ行き、ヨーロッパをまわり、印度を経て、帰途新中国へも立ち寄るとの報を、新聞記事で知った。
 相手は平和の使節だし、私は戦犯の捕われの身だから、たとえ梢風さんが中国へ来たとしても、しょせんは会えなかろうと、一応はあきらめてはいたが、深い友情というものは、不可…

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