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花と龍
はなとりゅう |
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作品ID | 56224 |
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著者 | 火野 葦平 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「花と龍(下)」 岩波現代文庫、岩波書店 2006(平成18)年3月16日 「花と龍(上)」 岩波現代文庫、岩波書店 2006(平成18)年2月6日 |
初出 | 花と龍「読売新聞」読売新聞社、1952(昭和27)年6月20日~1953(昭和28)年5月11日<br>あとがき「花と龍(下巻)」新潮社、1953(昭和28)年7月31日<br>解説「火野葦平選集 第五巻」東京創元社、1958(昭和33)年 |
入力者 | Juki、kompass |
校正者 | りゅうぞう |
公開 / 更新 | 2018-01-24 / 2018-01-07 |
長さの目安 | 約 841 ページ(500字/頁で計算) |
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序章
[#改丁]
女の出発
「たいそう暗いが、キヌさん、もう何時ごろかのう?」
「まあだ、三時にはなりゃあすまいね」
「やれやれ、この谷は一日がよその半分しかないよ。仕事も半分しか、でけやせん」
「その代り、夜がよその倍あるわ」
「倍あったって、電燈はつきゃせんし、油は高いし、寝るしか用がない。この村の者がどんどん都に出て行くわけがわかるよ。遠いところに行く者は、ハワイやブラジルまでも行っとる。成功しとる者もたくさんある。その成功した者は、もう二度とこんな草深い田舎には、かえって来やせん。かえらんのがほんとよな」
「マンさん、あんたもどうやら、出心がついたようにあるねえ。兄さんの林助さんは、関門の方に行ってなさるということだが、元気にして居りんさるかね」
「はい、門司で、沖の仕事をして、儲けだしとるとかで、わたしに、出て来んか、って、なんべんも手紙をくれなさる」
「だけど、たいがいなら、港なんどというところには出んがええよ。人気が荒うて、若い娘はモミクチャにされるというけえ。……マンさん、もう、煙草葉のばすこと、やめんさい。帰ろうや」
「お父っあんが、楽しみに待ってなさるけえ」
「親孝行もんよ。おふくろも安心でがんひょう。でも、その煙草葉、大丈夫なのけえ?」
「大丈夫とも」
深い谷の底である。四方の山がきりたっているので、この部落には、朝の光線がさすのはおそく、日の暮れるのは早い。まして、日の短い秋であるから、まだ三時というのに、もう黄昏のようだ。部落の名は、広島県比婆郡峯田村字峯。
はげしいせせらぎの音をたてる谷川の岸で、二人の若い村の娘が話をしている。健康そうなのは共通しているが、マンの方は丸顔の小柄、キヌの方は長顔で、おそろしく背が高い。
粗末な木綿着のマンは、川岸にある二段歩ほどの煙草畠にしゃがみ、しきりに落ちた古葉をさがして重ねる。ていねいに、皺をのばす。なれた手つきである。
野良着で、手に鎌を持っているキヌの方はススキの林のなかに、あおむけにひっくりかえって、
「やあれ、もう、狐さんたちが鳴き騒いどらあ」
と、のんきたらしく独りごとをいいながら、無意味に、バサッ、バサッと、ススキをたたき切っている。
深い山には、狐、狸、兎、猿、などがたくさん居り、ときどき、猪があらわれることがあった。昔から現在にかけて、狐に化かされた話は数えきれない。谷川には河童がいるという。河童と角力をとったという老人が、自分の実見談を、炉辺で、まじめな顔して話す。
マンは、煙草好きの父のために、一枚でも余計に葉をひろうつもりである。においの強い、黄色い枯葉が、笊のなかにたまる。
すると、寝ころがっていたキヌが、突然、くるりと起きあがった。なにかを見つけたらしい。
「マンさん、大事、鬼が来たよ。早よ、隠れんさい」
切迫し…