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けすとえくえろ
けすとえくえろ
作品ID56252
副題探偵小説は芸術か
たんていしょうせつはげいじゅつか
著者妹尾 アキ夫
文字遣い新字新仮名
底本 「10月号(第3巻・第10号)」 幻影城
1977(昭和52)年10月1日
初出「新青年」1935(昭和10)年3月号
入力者sogo
校正者持田和踏
公開 / 更新2024-03-04 / 2024-03-02
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 甲賀三郎氏の探偵小説についての論文は、同氏の小説とおなじく、正直に正面からぶつかったもので、すこぶる読みごたえのあるものだが、正面からぶつかっていられるだけ、部分的には一つぐらい私の考えと違うところがないでもなかったが、これはむしろ当り前で、人間の顔が一人一人ちがうと同じであろう。「今尚探偵小説は芸術小説たり得るという説をしている人があるのに驚く。或る約束に縛られたら、最早芸術ではない。例えば絵画は芸術だが插絵は芸術ではない」大抵の人はこの甲賀三郎氏の説と同意するだろうか、私はそうは思わない。私には絵画の尺度で插絵を批判するからこそ插絵が芸術でないように思われるので、插絵には插絵としての別個の芸術があるように感じられるのだが、これは私の錯覚だろうか。
 およそどんな芸術でも約束に縛られないものはないように思う。芝居は舞台の上から眼と耳に訴えるべく約束づけられ、音楽は耳以外に一歩も出ることが出来ず、小説は文字、絵はカンヴァス、和歌や発句は字数まで縛られている。小説だけについてみても、日本の純文芸とやらの心境小説は心境のみを窮屈に掘りさげなければならんわけだし、私小説は必ず自分の経験をかくべく約束され、恋愛小説に一つ以上のラヴアフェアが盛られていなかったら、もはや恋愛小説とは云われなくなる。同様に戦争小説は戦争をかき、探偵小説は犯罪の発見の経路をかくのだとは云えないだろうか。
 私は心境小説に芸術になったのとならんのとあると同様に、探偵物にも芸術になったのとならんのとあるように思う。いちじるしい例をあげるなら、「罪と罰」や「レ・ミゼラブル」は誰でも芸術品と云うにちがいないが、あれは探偵小説の一つであると云っても誰もそれを否定し得ないのである。ここまで云って来ると芸術という言葉の意味を吟味せねばならなくなるが、どうも日本では芸術というと難しいことになりやすいが、私はごく平易なという言葉の一つの意味と同じだと考えている。一つの芸術の尺度で他の芸術をはかろうとするから間違いが起る。「ルパン」「ホームズ」そのたの傑作はみな「探偵小説としての芸術品」だと思う。そしてこの意味から云うと、もはや芸術味のある探偵物には人情味を加えなくてはならんとは云えなくなる。人情味がちっともないフリーマンの小説でも「探偵小説としての芸術」だし、探偵小説は芸術にあらずとおっしゃる甲賀三郎氏もたくさんの芸術品を作っていられるように私は思う。
 詩は十九世紀を最後として死んだ。歌劇はスカラ座に於てでさえ客足を断とうとしている。小説の全盛期は十九世紀から二十世紀の初めで、今では小説、トーキー共立の形が、やがてトーキー、ラジオ、テレヴィジョンその他の未知のものに蚕食せられるだろう。
 探偵物は芸術でないと云う人があるぐらいだから、トーキーが芸術でないと云う人も沢山あるだろうが、やがて小説が死んで、ト…

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