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小夜の中山夜啼石
さよのなかやまよなきいし
作品ID56256
著者岡本 綺堂
文字遣い新字旧仮名
底本 「青蛙堂奇談 ――岡本綺堂読物集二」 中公文庫、中央公論新社
2012(平成24)年10月25日
初出「婦人倶楽部」1923(大正12)年7月号
入力者江村秀之
校正者noriko saito
公開 / 更新2020-10-15 / 2020-09-28
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 秋の末である。遠江国日坂の宿に近い小夜の中山街道の茶店へ、ひとりの女が飴を買ひに来た。
 茶店といつても型ばかりのもので、大きい榎の下で差掛け同様の店をこしらへて、往来の旅人を休ませてゐた。店には秋らしい柿や栗がならべてあつた。そのほかにはこの土地の名物といふ飴を売つてゐた。秋も深けて、この頃の日脚はだん/\に詰まつて来たので、亭主はもうそろ/\と店を仕舞はうかと思つたが、また躊躇した。
『あのおかみさんがまだ来ない。』
 きのふまで五日のあひだ、毎日おなじ時刻に飴を買ひにくる女がある。それが今日はまだ来ないことを思ひ出して、亭主はすこし躊躇したのであつた。その女はいつも暮れかゝつた頃に来て、たつた一文の飴を買つてゆくのである。勿論、今日とは違つて、その昔は一文の飴を買ふのもめづらしくないが、所詮一文は一文であるから、それを売ると売らないとが一日の収入の上、左ほどの影響のないのは、亭主にもよく判つてゐたが、彼はその女の来ないうちに店を仕舞ふ気になれなかつた。
 むかしの人は正直である、商売冥利といふこともよく知つてゐた。したがつて、たとひそれが僅かに一文のお客様であらうとも、毎日欠さずに来てくれる以上、その人の顔をみないうちに店を仕舞ふのは義理がわるいやうに思はれたからである。もう一つには、その女の人柄や風俗がどうも土地の人ではないらしい。五日もつゞけて買ひに来て、もう顔馴染にもなつてゐながら、決してその居所をあかさない。こちらから訊いてもいつも曖昧に詞を濁して立去つてしまふ。それがどうも亭主の腑に落ちなかつた。かれが店を仕舞ふのを躊躇したのは、所謂商売冥利のほかに、その女に対する一種の好奇心といふやうなものも幾分かまじつてゐたのであつた。
 街道にはもう往来も絶えた。表もうす暗くなつた。亭主もいよ/\思ひ切つて店を仕舞はうとするところへ、いつもの女の影が店のまへにあらはれた。
『毎度御面倒でござりますが、飴を一文おねがひ申します。』と女は叮嚀に云つた。
 毎日来るので、亭主もこの女の年頃や顔容をよく知つてゐた。彼女は廿二三ぐらゐの痩形の女で、眉を剃つてゐる細い顔は上品にみえた。どう考へても、こゝらの百姓や町人の女房ではない。相当の身分のある武家の妻かとも思はれる人柄である。しかも至つて無口で、用のほかには何にも云はないので、亭主にも彼女の身分がはつきりとは判らなかつた。
『いらつしやいませ。』と、亭主は女にむかつて叮嚀に会釈した。
『もうおいでになる頃とお待ち申してをりました。今日は少し遅いやうでござりましたな。』
『はい。出先に子供がむづかりまして……。』と、女は声をすこし曇らせた。
『左様でござりましたか。では、この飴はお子供衆におあげなさるのでござりますか。』と、その尾について亭主は訊いた。
『はい。』
 亭主の手から飴をうけ取つて、女はいつもの通…

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