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尾瀬の昔と今
おぜのむかしといま
作品ID56263
著者木暮 理太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山の憶い出 下」 平凡社ライブラリー、平凡社
1999(平成11)年7月15日
初出「登山とスキー」1936(昭和11)年6月
入力者栗原晶子
校正者雪森
公開 / 更新2016-01-08 / 2015-12-24
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 尾瀬の名は『会津風土記』に「小瀬峠 陸奥上野二州之界」又は「小瀬沼 在会津郡伊南郷縦八里横三里」として載っているのが古書に見られる最初である。此書は寛文六年に編纂されたもので、これに先立つこと約二十年の『正保図』には、「さかひ沼」と記してあるが「をぜ沼」とは書いてない。或は正保以前から「をぜ」の称があったかとも思われる、けれども『会津風土記』以外には確な記録がないのである。上州方面では古い地誌の編纂がなかったので、遥に後れて個人の手に成った安永三年の序ある『上野国志』に、

沼峠 駒ヶ岳の東に在り、上野・越後・陸奥の界なり、山上に沼あり、尾瀬沼と云、沼の中央国界なり。

とあるのが最初の記録であろう。是等に拠ると会津方面では小瀬と書き、上野方面では尾瀬と書いていることが分る。しかし孰れの地方が名付親であるかは判然しないし、又をぜの語源も知る由がない。武田君の話に拠ると、阿能川岳と小出俣岳との間の尾根に俚人が「をぜの田」と称する処があって、矢張り草原の湿地であるとのことであるから、参考とす可き地名である。『利根郡村誌』には尾瀬沼の項に

尾瀬沼ハ往昔阿部三太郎尾瀬ニ住シテ此沼ノ沿岸ニ稲ヲ播シテ何処ヨリモ早キヲ以テ早稲ト称シ中古慣称シテ早瀬ト云後チ今ノ尾瀬沼ト改称セリ

とあって、早稲の転訛したものとしてあるが、尾瀬で米の作れないことは其後の実験が証明している。これは何処にもよくある例の地名に附会した説明に過ぎまい。

 尾瀬の伝説は二、三あって以仁王に関するものが会津方面に伝わっている。南会津郡楢原村大字水抜の高倉山の麓に在る高倉神社は、高倉宮以仁王の霊を祭ったものであるというが、此附近には倉と名の付く地名が多いから、倉は[#挿絵]を意味し、高倉神社の起原もそれと関聯したもので、以仁王のことは後に結び付けられたものではあるまいかと思う、然し確なことは実地を知らぬので何とも云えない。明応九年に記したという高倉神社の勧進帳の文は、文化六年の序ある『新編会津風土記』に載っている。夫に拠ると王の御一行は東海道から陸奥に赴かんとして檜枝岐山を通られたと記してあるので、尾瀬を経由したものであろうと想像されるのみに過ぎない。然るに同じ村の大字大内に在る高倉神社の社記は、治承四年八月六日渡部長七唱の手記に係ると伝えられ、宮川久雄君が採録して、大正十二年発行の『登高行』第三年に掲載した。其全文は次の通りである。

  人皇八十代高倉院ノ御宇治承四年秋書
 院ノ第二皇子以仁親王、是レヲ高倉宮ト号ス。源三位頼政ノ勧メニ依リ、兵ヲ挙ゲ、宇治川ノ合戦ニ敗北シ、足利又太郎忠綱ノ情ニテ、御助命アリ、越後ノ住人小国右馬頭頼之ニ依リ、落チ給フ。右馬頭ハ頼政ノ弟ナリ。親王供奉ノ面々ニハ、尾瀬中納言藤原頼実(是レハ檜枝岐山ノ尾瀬大納言頼国ノ弟ナリ)、同三河少将光明、同小椋少将藤原定信、同乙部右衛…

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