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嘉陵紀行
かりょうきこう |
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作品ID | 56264 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 下」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年7月15日 |
初出 | 「山岳」1916(大正5)年12月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2014-07-08 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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『嘉陵紀行』は徳川幕府の頃、三卿の一であった清水家の用人村尾正靖の著である。号を嘉陵と称した所から其記行文集を『嘉陵紀行』と唱えるが、実は後人の名付けたものである。非常に旅行が好きで、暇さえあれば江戸附近の名所旧跡を探って楽しんでいたことは、其紀行文から推知することが出来る。殊に吾々に取って懐しく思われるのは、大の山岳宗徒であったことである。「府中道の記」の一節には
下石原、上石原などを過行。この辺路に石多し、故に石原と名付しにや。こゝより西南林木のはづれに玉川の向山見ゆ。夫より少し行て下染屋、上染屋に至る、こゝに原あり(上下染谷のあいだ也)江戸よりこゝ迄は、路林木の際を出没するのみにて、目にとまるながめなく、こゝに到て初て闊達として山壑の美を見る事を得。南に大山みゆ、夫より山々連綿して富士の根を遮きり峙つ。西北を顧みれば八王子、子の権現、秩父、武甲諸山をみる。(こゝにて富士の根方の山々を望み、山の皺あるをみる、其やゝ近づきたるをしるべし。秩父諸山は猶更也。其外は江戸にてみるよりは高く山聳へ、富士は江戸の観にくらぶれば、根方の山にさへぎられて、五六合を見る心地す。)玉川向山も間近くみわたされて、かたわらの民戸に腰かけてこゝの風景をうつす。
という記事がある。これだけ読んでも如何に山が好きであったかが推量されるが、更に驚嘆す可きは、中仙道の桶川までわざわざ浅間山を見に出懸けた事で、其紀行の冒頭には斯う書いてある。
中山道上尾のあたりより、秋冬の際空晴れば、浅間の岳みゆると、過し年伊納沢吉がいひしに、いつぞは行ても見まほしく思ひしかど、仕る道のいとまなみ、今日あすともだし侍りける。今年は神無月たちぬれど、まだしぐれの雨も間遠にて、朝夕もさまで寒からねば、とみにおもひたちて寅の一点許宿を出て、火ともして行。
其熱心には全く恐れ入るの外はない。而も上尾では見えなかったので、更に桶川まで行って日光赤城榛名妙義などを眺め、夢のように淡い山を見て、百姓に教えられて夫が浅間山であることを知った。
北の空を見渡せば、いくへの遠の雲ゐにそれかあらぬか、まゆすみのごとあは/\と見ゆる山あり、それかとおもふ物から人にとふべきよすかもなし。遥かのをちに畑うつをのこの立てるを見つけたれば
いとまなみ畑にたつをも心あらは
浅間かたけをさしてをしへよ
などいひて、畔をつたひたちよりてとへば、げに浅間はかなたの山なり。今日はことによく晴れたれど、余りのどかなれば霞みて煙はさだかにも見えず、けさの朝気にはそれとけぶりさへよく見えし。云々。
其時のスケッチに題せる詩に
郊原駅路[#挿絵]相連 行望名山隴畝辺
試問農夫頷且笑 樹梢遥指浅間巓
というのがある。文政二年十月四日の日附から推して正靖が五十八歳の時であったことが知れる。之を高頭君の太陽暦年表に拠って…