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望岳都東京
ぼうがくととうきょう |
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作品ID | 56270 |
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著者 | 木暮 理太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山の憶い出 下」 平凡社ライブラリー、平凡社 1999(平成11)年7月15日 |
初出 | 「霧の旅」1934(昭和9)年4月 |
入力者 | 栗原晶子 |
校正者 | 雪森 |
公開 / 更新 | 2014-07-11 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 63 ページ(500字/頁で計算) |
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天城山より笠山まで
むかし太田道灌が始めて江戸城を築いた時、城上に間燕の室を置て之を静勝軒と名付け、東は江戸湾を望み西は富士秩父の連嶺を軒端に眺めた所から、東を泊船亭と曰い西を含雪斎と曰うたとのことである。静勝軒を題として記述した詩文に、「西嶺当レ[#挿絵]雪界レ天」、又は「西望則逾二原野一而雪嶺界レ天」とある句は、蓋し実景をよんだもので、雪嶺或は西嶺は富士山を指したものに外なるまい。道灌は風流二千石といわれた程あって、歌も上手によみ、扇谷の老臣として軍旅に忙しい身でありながら、よくこの静勝軒で歌合や連歌の会などを催した。元より泊船亭や含雪斎の名は、「[#挿絵]含二西嶺千秋雪一、門泊二東呉万里船一」という詩句から取ったものであろうが、当時の江戸城は今の宮城内に在る元の本丸の地であったということであるから、眺望の広闊なることは言う迄もないことで、富士は更なり遠い赤石山脈の悪沢岳や荒川岳(塩見岳)の七月上旬に於ける残雪は、恐らく含雪斎の主人公をして、西嶺千秋雪の感を深からしめたことであろうと思う。
我庵は松原つつき海近く富士の高根を軒端にそ見る
という歌は、静勝軒の大展望観の一部を歌ったものに過ぎないとしても、江戸城の創建者が其処から見られる山に対して可なりの注意を払ったであろうことが想像されるのである。
道灌が江戸城を築いた頃は、月の入る可き隈もなしと歌われた通り、武蔵野は一望曠漠たる茅原か又は雑木林で、展望を遮る高い建物や、石炭の煙などは皆無であったから、静勝軒からは居ながらにして、いつも(恐らく)山を望むことが出来たであろう。併し今の東京となってからは、そうは行かなくなった。殊に彼の煤煙は最も邪魔物であるから、少くとも東京から山を望むには、空気が乾燥して透明である冬季の晴れた日という一般的条件の外に、煤煙を一掃する為に可なり強い風が吹くという条件を伴う必要が生じて来た。其風も北西の風でないと好適とはいえないのである。若し是等の条件が一つでも欠けて居れば、雪嶺天を界する壮観は到底望まれないものと思って誤りはない。
東京から見られる山の南限は天城山であろう。試に市内の高処に登って遠く眼を南方に放つと、南南西に当って遥の地平線上に、高低参差たる三、四の峰頭を幽かに認めるであろう、之が伊豆半島の天城山で、右端の最も高いのが伴三郎岳である。けれども天城山は勿論、夫よりも余程近い箱根山群すら、容易に姿を見せないのは、此方面の山は東京からはいつも逆光線である為に、判然と認め難いことに起因するものである。箱根の右にはずっと近く大山一名雨降山が、鈍い金字形に立ちはだかっている。其右に続く連嶺は丹沢山塊の主部で、最高点蛭ヶ岳は山塊の殆ど中央に聳えている。この山塊の上に、いつも端麗な姿を高く天空に顕しているのは、いわずと知れた東海の名山富士である。風の強い日であると…