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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 56279 |
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副題 | 064 九百九十両 064 きゅうひゃくきゅうじゅうりょう |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「銭形平次捕物控(七)平次女難」 嶋中文庫、嶋中書店 2004(平成16)年11月20日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋社、1937(昭和12)年6月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 結城宏 |
公開 / 更新 | 2018-11-17 / 2019-11-23 |
長さの目安 | 約 31 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「親分」
「何だ、八」
「腕が鳴るね」
ガラッ八の八五郎は、小鼻をふくらませて、親分の銭形平次を仰ぎました。
初夏の陽を除け除け、とぐろを巻いた縁側から、これも所在なく吐月峰ばかり叩いている平次に、一とかど言い当てたつもりで声を掛けたのでした。
「腕の鳴る面かよ、馬鹿野郎、近頃お湿りがないから、喉が鳴るんだろう」
「違えねえ」
平掌で額をピシャリ。この二三日スランプに陥っている平次から、この痛快な馬鹿野郎を喰らわせられるのが、ガラッ八にはたまらない嬉しさの様子です。
「八、あれを聞くがいい」
「何ですえ、親分」
「誰か来たようだ、とんだ面白い仕事かも知れないよ」
「…………」
「家の前を往ったり来たりしているだろう。入ろうか入るまいか、先刻から迷っている様子だ、――女の跫音だね」
平次の言葉が終らぬうちに格子が開いて、お静が取次に出た様子、若い女の低いが弾み切った声が聞えます。やがて通されたのは、二十歳そこそこの愛くるしい娘、何やら悩みに打ちひしがれて、部屋の隅に小さく俯向きました。
色白の頬が少し痙攣して、豊かな肩が揺れると、恐る恐る顔をあげて、相対した江戸一番の御用聞――銭形平次の顔をソッと見上げるのです。
「俺は平次だが、どんな用事で来なすった。思い切って打明けてみるがいい」
平次はこの娘の裡から善良なものを感じました。
「親分さん、父さんを助けて下さい。父さんは頸を縊って死ぬんだといって、どうなだめても聞いてくれません」
「なるほど、それは大変だろう、――お前の父さんというのは何だえ、稼業は?」
平次は娘の昂奮を外らさないように、心持せき込んで訊ねます。
「灸点横町(神田佐久間町)の多の市でございます」
「あ、蛸市か。すると姐さんはお浜さんかい、道理で――」
縁側からガラッ八が長い顎を出します。
「黙って引っ込んでいろ、馬鹿野郎ッ」
平次の一喝を喰らって、ガラッ八は頭を叩かれた蝸牛のように引っ込みました。
もっとも、娘の名乗るのを聞いて、ガラッ八が乗り出したのも無理のないことだったのです。灸点横町の多の市というのはお灸と鍼の名人で、神田中に響いた盲人ですが、稼業の傍ら高利の金を廻し、吸い付いたら離れないからというので、蛸市と綽名を取っているほど、強か者だったのです。
その娘のお浜の美しい話も、ガラッ八は聞き飽きるほど聞かされておりました。ポチャポチャして可愛らしくて、若い男の心をひしと掴まずにはおかない――という噂のお浜が、この物に怯えて雁皮紙のように顫えている娘とは思いもよりません。
「そうおっしゃるのも無理はございません。父さんは本当にお金を溜めるのに夢中だったんですから、――その命がけで溜めたお金が九百九十両、誰かに盗まれてしまいました」
「九百九十両?」
銭形平次は驚きました。九百九十両といえば、千両にたった十両…