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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 56283 |
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副題 | 066 玉の輿の呪い 066 たまのこしののろい |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「銭形平次捕物控(七)平次女難」 嶋中文庫、嶋中書店 2004(平成16)年11月20日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋社、1937(昭和12)年8月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 結城宏 |
公開 / 更新 | 2018-11-30 / 2019-11-23 |
長さの目安 | 約 32 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「あッ、ヒ、人殺しッ」
宵闇を劈く若い女の声は、雑司ヶ谷の静まり返った空気を、一瞬、煮えこぼれるほど掻き立てました。
「それッ」
鬼子母神の境内から、百姓地まで溢れた、茶店と、田楽屋と、駄菓子屋と、お土産屋は、一遍に叩き割られたように戸が開いて、声をしるべに、人礫が八方に飛びます。
「お吉じゃないか」
誰かが、路地の口に、ガタガタ顫えている娘の姿を見つけました。
「お菊さんが、お菊さんが――」
お吉の指さす方、ドブ板の上には、向う側の家の戸口から射す灯を浴びて、紅に染んだ、もう一人の娘が倒れているではありませんか。
「あッ、お菊」
人垣は物の崩れるように、ゾロゾロと倒れているお菊の方に移りましたが、蘇芳を浴びた虫のように蠢く断末魔の娘をどうしようもありません。
「お菊、どうしたんだ」
野次馬を掻き分けて飛込んで来たのは、落合の徳松というノラクラ者、いきなり血潮の中から、お菊を抱き上げます。
が、お菊はもう虫の息でした。半面紅に染んだ顔は、恐ろしい苦痛に引攣って、カッと見開いた眼には次第に死の影が拡がるのです。
「お菊ッ、――だから言わない事じゃない、罰が当ったんだ」
徳松は死に行くお菊の顔を憎悪とも、懐かしさとも、言いようのない複雑な眼で見据えましたが、やがて自分の腕の中に、がっくりこと切れる娘の最期を見届けると、
「お菊ッ」
激情に押し流されたように、自分の濡れた頬を、娘の蒼ざめた頬にすりつけるのです。
「あッ、何ということをするんだえ、畜生ッ」
転げるように飛込んで来たのは、五十年配の女――お菊の母親のお楽でした。いきなり徳松を突き飛ばすと、その膝の上から、娘のお菊を毟り取ります。
「おっ母ア、お菊は大変だぜ」
わずかに反抗する徳松。
「お前がやったんだろう。畜生ッ、どうするか見やがれ」
戦闘的な母親は、お菊が死んだとは気がつかなかったものか、相手の男を憎む心で一パイです。
「違うよ、俺じゃねえ」
「あッ、お菊、確りしておくれ、おっ母アだよ、お菊ッ」
「…………」
「お菊、お菊ッ、死んじゃいけないよ。お菊、明日という日を、あんなに楽しみにしていたじゃないか」
「…………」
「お菊」
母親のお楽は、自分の腕の中に、一と塊の襤褸切れのように崩折れるお菊を揺すぶりながら、全身に血潮を浴びて、半狂乱に叫び立てるのでした。
「おっ母ア、驚くのは無理もねえが、――お菊坊がこんなになったのは、おっ母アのせいもあるんだぜ」
徳松はまだそこに居たのです。灯先にヌッと出した顔は――身体は――、顎から襟へ腕へ――膝へかけて、飛び散る碧血を浴びて、白地の浴衣を着ているだけに、その凄まじさというものはありません。
「まだウロウロしているのかい、――お菊を殺したのはお前だろう」
猛然と振り仰ぐお楽。
「違うよ、俺じゃねえ、大名なんかへやる気になっ…