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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID56288
副題033 血潮の浴槽
033 ちしおのよくそう
著者野村 胡堂
文字遣い新字新仮名
底本 「銭形平次捕物控(三)酒屋火事」 嶋中文庫、嶋中書店
2004(平成16)年7月20日
初出「オール讀物」文藝春秋社、1934(昭和9)年10月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2016-04-10 / 2019-11-23
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 元飯田橋の丁子風呂の女殺しは、物馴れた役人、手先もたった一目で胸を悪くしました。これほど残酷で、これほど巧妙で、これほど凄い殺人は滅多にあるものではありません。
 少し順序を立てて話しましょう。
 滅法暑かった年のことです。八朔から急に涼しくなりましたが、それでも日中は汗ばむ日が多いくらい、町の銭湯なども昼湯の客などは滅多にありません。わけても女湯はガラ空きで未刻(午後二時)から申刻(四時)までに入る客というのは、大抵決った顔触れと言ってもいいくらいでした。
 旗本のお妾のお才が出て、町内の金棒引――家主の佐兵衛の女房で、若くて少しは綺麗なのが自慢の――お六が入ったのはちょうど未刻半(午後三時)、番台に誰も居なかったので、
「ちょいと、今日は。誰も居ないのかえ、気楽ねえ」
 そんな事を言いながら、着物を脱いで、少し乾いた流しを爪先歩きに石榴口から静かに入りました。
 そこまでは無事でしたが、間もなく、
「あッ、た、大変ッ」
 お六は鉄砲玉のように石榴口から飛出すと、流しに滑って物の見事に仰け反りました。
「どうなすったんです、御新造さん」
 番台へ登ろうとしていた丁子風呂のお神さんと、釜前に居た三助の丑松は、両方から飛んで来てお六を抱き起しました。
「お怪我をなさいませんか」
 よくある奴で、流しへ滑って転んだとばかり思い込んだのです。
「あッ血」
 起してみると、お六の半身を桃色に染めて、紛れもない血潮。
「中に、人が」
 お六は上半身を起して一生懸命石榴口を指しますが、あまりの驚きに、口もきけません。
「浴槽の中に、何かあったんですか」
 三助の丑松は、お六をお神さんに任せて、石榴口から中を覗きました。
「あッ死んでいる」
 薄暗い浴槽の中ですが、慣れた眼には、たった一と目で、その中に若い女が、俯きになって、上半身を沈めているのが判ったのです。
「どうしたのさ」
 お神さんも続いて覗きました。三助の丑松はそれを少し退かせて、油障子の天窓から入る、午後の陽を一パイに石榴口から入れて見ると浴槽の中は、さながら蘇芳を溶いたよう、その中に、上半身を沈めた恰好になって若い女が死んでいるのですから、その凄さというものはありません。
 夕陽を受けた深海の水藻のような黒髪、真っ赤な頸、肩から胴腰から下は水の上に浮いて、トロリとした凝脂がそのまま、赤い水に溶け込んでしまいそうにも見えるのでした。
 それよりも恐ろしかったのは左貝殻骨の下へ、背後からグサと刺した少し長目、直刃の短刀で、籐を巻いた柄、形ばかりの鉄の鍔、荒砥で菜切庖丁のように磨いだ肌などを見ると――これは後に解ったことですが――能登の国から出て来たという丑松の持物で、江戸の人の眼からは、山奥の猟師か、鯨や鮫を割く漁師でもなければ持っていそうもない不思議なものでした。
「ヒ、人殺しッ」
 お神はとうとう悲…

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