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![]() ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 56299 |
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副題 | 054 麝香の匂い 054 じゃこうのにおい |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「銭形平次捕物控(六)結納の行方」 嶋中文庫、嶋中書店 2004(平成16)年10月20日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋社、1936(昭和11)年8月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 結城宏 |
公開 / 更新 | 2018-10-15 / 2019-11-23 |
長さの目安 | 約 25 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「旦那よ――たしかに旦那よ」
「…………」
鬼になった年増芸妓のお勢は、板倉屋伴三郎の袖を掴んで、こう言うのでした。
「ただ旦那じゃ解らないよ姐さん、お名前を判然申上げな」
幇間の左孝は、はだけた胸に扇の風を容れながら、助け舟を出します。
「旦那と言ったら旦那だよ、この土地でただ旦那と言や、板倉屋の旦那に決ってるじゃないか。幇間は左孝で芸妓はお勢さ、ホ、ホ、ホ――いい匂いの掛け香で、旦那ばかりは三間先からでも解るよ。お前さんが側へ来てバタバタやっちゃ、腋臭の匂いで旦那が紛れるじゃないか、間抜けだねエ――」
「なんて憎い口だ」
左孝は振り上げて大見得を切った扇で、自分の額をピシャリと叩きました。このとき大姐御のお勢が、片手に犇と伴三郎の袖を掴みながら、大急ぎで眼隠しの手拭をかなぐり捨てたのです。
伴三郎の思い者で、土地の売れっ妓お勢に対しては、左孝の老巧さでも、二目も三目もおかなげればなりません。
「それ御覧、旦那じゃないか」
お勢は少しクラクラする眼をこすりました。二十二三でしょうが、存分にお侠で、この上もなく色っぽくて、素顔に近いほどの薄化粧が、やけな眼隠しに崩れたのも、言うに言われぬ魅力です。
「眼隠し鬼は手で捜って当てるのが本当じゃないか。匂いを嗅いで当てるなんて、犬じゃあるまいし――私はそんな事で鬼になるのは嫌だよ」
伴三郎はツイと身をかわして、意地の悪い微笑を浮べております。
これは三十そこそこ、金があって、年が若くて、男がよくて、蔵前切っての名物男でした。本人は大通中の大通のような心持でいるのですが、金持の独りっ子らしく育っている上に、人の意見の口を塞ぐ程度に才智が廻るので、番頭達も、親類方も、その僭上ぶりを苦々しく思いながら、黙って眺めているといった、不安定な空気の中にいる伴三郎だったのです。
「あら、旦那、そんな事ってありませんワ」
お勢は少し面喰らいました。
「でも、俺は匂いを嗅ぎ出されて鬼になるなんか真っ平だよ」
「それじゃ、もういちど鬼定めをしようか、その方が早いぞ」
白旗直八は如才なく仲裁説を出しました。昔は板倉屋の札旦那の倅でしたが、道楽が嵩じて勘当され、今では伴三郎の用心棒にもなれば、太鼓も打つといった御家人崩れの、これも三十男です。
「それがいい、それがいい」
雛妓や、若い芸妓達――力に逆らわないように慣らされている女達――は、こう艶かしい合唱を響かせました。
杯盤を片付けた、柳橋の清川の大広間、二十幾基の大燭台に八方から照されて、男女十幾人の一座は、文句も不平も、大きな歓喜の坩堝の中に鎔し込んで、ただもう、他愛もなく、無抵抗に、無自覚に歌と酒と遊びとに、この半宵を過せばよかったのです。
遊びから遊びへ、果てしもない連続は、伴三郎にも倦怠でした。――何か面白いことはないか、と、褒美を懸けて考え出した…