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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 56306 |
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副題 | 028 歎きの菩薩 028 なげきのぼさつ |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「銭形平次捕物控(六)結納の行方」 嶋中文庫、嶋中書店 2004(平成16)年10月20日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋社、1934(昭和9)年5月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 結城宏 |
公開 / 更新 | 2018-05-31 / 2020-12-27 |
長さの目安 | 約 30 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「親分、あれを聞きなすったかい」
「あれ? 上野の時の鐘なら毎日聞いているが――」
銭形平次は指を折りました。ちょうど辰刻(八時)を打ったばかり、――お早うとも言わず飛込んだ、子分のガラッ八の顔は、それにしては少しあわてております。
「そんなものじゃねえ、両国の小屋――近頃評判の地獄極楽の活人形の看板になっている普賢菩薩様が、時々泣いているって話じゃありませんか」
一流の早耳、八五郎はまた何か面白そうな話を聞込んで来た様子です。
「地獄極楽の人形は凡作だが、招きの普賢菩薩が大した名作だってね」
「作人は本所緑町の仏師又六、大した腕のある男じゃねえが、あの普賢菩薩だけは、後光が射すような出来だ。そのうえ木戸番のお倉てえのが滅法いい女で、小屋は割れっ返るような入ですぜ」
「お倉と普賢菩薩を拝んで、極楽も地獄も素通りだろう。そんな野郎は浮ばれねえとよ」
「全くその通りさ、親分、――その普賢菩薩が、時々涙を流しているから不思議じゃありませんか、岡っ引冥利、一度は見ておかなくちゃ――」
「手前はもう五六遍見ているんだろう。懐の十手なんかを突っ張らかして、ロハで小屋を荒らして歩いちゃ風が悪いよ」
「冗談でしょう、親分」
ガラッ八をからかいながらも、銭形の平次は支度に取りかかりました。両国の活人形が泣いているというのは、どうせ勧進元のサクラに言わせる細工で、ネタを洗えば人形の眼玉へ水でも塗るんだろう――ぐらいに思ったのですが、それにしても、少し細工が過ぎて、なんとなく見逃し難いような気がしたのです。
「出かけようか、八」
「ヘエ――、本当に行ってみる気ですか、親分」
「岡っ引冥利、お倉と普賢菩薩は拝んでおけと――たった今手前が言ったじゃないか」
「お倉だけは余計ですよ、――ところで親分、行ってみるのはいいが、朝でなくちゃ泣いていませんよ」
「寝起きの機嫌の悪いお倉だ」
「お倉じゃねえ、泣くのは仏体で」
「あ、そうそう」
平次はまだからかい面ですが、気の合った親分子分は、こういった調子で話しながら、お互の微妙な心持を、残すところなく伝える術を知っているのでした。
「明日の朝にしちゃどうでしょう、親分」
とガラッ八。
「早い方がいいぜ、明日行ってみたら普賢菩薩が笑っていたなんてえのは困るだろう。そうなると、岡っ引より武者修業を差向けた方がいい」
「口が悪いな親分、もっともここから向う両国までは一と走りだから、涙の乾く前に着くかも解らない」
二人は無駄を言いながら、朝の街を飛ぶように、両国橋を渡って、地獄極楽の見世物の前に立った時は、もう気の早い客が、五六人寄せかけておりました。
「いらっしゃい、御当所名題の地獄極楽活人形、作人の儀は、江戸の名人雲龍斎又六、――八熱八寒地獄、十六別所、小地獄、併せて百三十六地獄から、西方極楽浄土まで一と目に拝まれる、一流活人形…