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赤い杭
あかいくい
作品ID56328
著者岡本 綺堂
文字遣い新字旧仮名
底本 「近代異妖篇 ――岡本綺堂読物集三」 中公文庫、中央公論新社
2013(平成25)年4月25日
初出「夕刊大阪新聞」1929(昭和4)年9月1日(推定)
入力者江村秀之
校正者noriko saito
公開 / 更新2020-11-15 / 2020-10-28
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 場所の名は今あらはに云ひにくいが、これは某カフヱーの主人の話である。但しその主人とは前からの馴染でも何でもない。去年の一月末の陰つた夜に、わたしは拠ろない義理で下町のある貸席へ顔を出すことになつた。そこに某社中の俳句会が開かれたのである。
 わたしは俳人でもなく、俳句の選をするといふ柄でもないのであるが、どういふ廻り合せか時々に引つ張り出されて、迷惑ながら一廉の選者顔をして、机の前に坐らなければならないやうな破目に陥ることがある。今夜もやはりそれで、無理に狩り出されて山の手から下町まで出かけて来たのであるが、あひにくに今日は昼間から陰つて底冷えがする。自分も二三日前から少しく風邪を引いたやうな心持がする。おまけに午後八時頃からいよ/\雨になつたので、わたしは諸君よりも一足先へ御免を蒙ることにして、十時近い頃にそこを出た。それから小半町もあるいて、電車の停留所にたどり着いたが、どうしたものか電車が一向に来ない。下町とはいひながら、雨のふり頻る寒い夜に、電車を待つ人の傘の影が路一ぱいに重なり合つてゐるのを見ると、よほど前から電車は来ないらしい。
 困つたものだと思ひながら、わたしも寒い雨のなかに突つ立つてゐると、電車はいつまでも来ない。電車ばかりか、意地悪く乗合自動車も来ない、円タクも来ない。夜はだん/\に更けて来る。雨は小歇みなく降つてゐる。洋傘を持つてゐる手先は痛いやうに冷くなつて来る。からだも何だか悪寒がして来た。
『とても遣切れない。茶でも喫まう。』
 かう思つて、わたしはすぐ傍にある小さい珈琲店の硝子戸をあけて這入つた。場合が場合であるから、どんな家でもかまはない。兎もかくも家のなかへ這入つて、熱い紅茶の一杯も啜つて、当坐の寒さを凌がうと思つたのである。店は間口二間ぐらゐのバラツク建で、表の見つきは宜しくなかつたが、内は案外に整頓してゐた。隅の方の椅子に腰をおろして、紅茶と菓子を註文すると、十六七の可愛らしい娘が註文の品々を運んで来た。
 ほかには客も無い。わたしは黙つて茶をのみながら其処らを見まはすと、菓子や果物のほかに軽い食事も出来るらしいが、家内は夫婦と娘の三人きりで、主人が料理を一手に引受け、女房が勘定をあづかり、娘が給仕をするといふ役割で、他人まぜずに商売をしてゐるらしい。今夜のやうな晩は閑であるとみえて、主人はやがてコツク場から店の方へ出て来た。年はもう四十を五つ六つも越えてゐるであらう、背は高くないが肥つた男で、布袋のやうな大きい腹を突き出して、無邪気さうににや/\笑ひながら挨拶した。
『お寒うございます。あひにくに又降り出しました。』
『困りますね。』と、わたしは表の雨の音に耳をかたむけながら云つた。
『まつたく困ります。旦那は御近所でございますか。』
『いや、山の手で……。』
『そりや御遠方で……。あひにく電車が些つとも来ないやうで…

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